第24回アジア賞作文コンテスト受賞者一覧

賞名

大学学部学科

名前

テーマ

出身国

最優秀賞

信州大学医学部 総合医工学研究科3

リュウ ケンペイ

人生の豊かさとは

中国

優秀賞

信州大学工学部電子情報システム工学科1

チン ワン ジー

なぜ他の国ではなくて、日本?

マレーシア

優秀賞

信州大学繊維学部応用生物科学科4

チョウ シン

よりよい社会のために私ができること

中国

佳作

信州大学農学部植物資源科学4

コウ トウ

初心を忘れず

中国

佳作

信州大学工学部物質化学科2

インヒュボルド   ホンゴロ

留学の際の人間関係の重要さ

モンゴル

佳作

信州大学経法学部2

オリギルサイハン ゲレルトヤ

留学によって切り開く私の人生

モンゴル

佳作

信州大学経法学部応用経済学科3

ホン ジンフイ

日本に夢があるが、焼きそばがない

マレーシア

佳作

丸の内ビジネス専門学校ビジネス科2

アラタンザヤ

留学によって切り開く私の人生

モンゴル

審査員  特別賞

信州大学工学部水環境・土木工学科1

ゴーティミングエット

日本とベトナムの発展に貢献する願望

ベトナム

伊藤賞  特別賞

信州大学グローバル化推進センター

セルニコラ  ヴァレンティーナ

浅き夢を見たい

イタリア

山梨YMCA特別賞

松本大学交換留学生3年

パク ミンヒョック

自分史「成長」

韓国

 

◇最優秀賞◇

人生の豊かさとは「選択」、「チャレンジ」、「実現価値」である

留学経験は十分に一生の癒しになる

 

氏名:劉建平 リュウ ケンペイ

信州大学 医学部 総合医工学研究科 生命医工学専攻 3

出身国:中国

 

 人生はどうしてもいくつかの忘れ難い経験があって、良い悪いに関わらず、すべて私達の心を豊かにすることができます。私にとって、それは人生の豊かさだと考えられます。 これから私の日本へ留学経験をもとに、私が理解する人生の豊かさを述べていきたいと思います。

留学前:「人生の選択は自分で決める」

 もちろん私は成功した人あるいは成功した先輩の角度から言うのではありません。私の留学も完璧ではありません。私も多くの焦りと不安を経験したことがあって、日本にきたのも「年上」の時です。私は今年既に32歳になって、多くの人は私に尋ねます。どうしてこの年齢になってまた日本に留学に来たのかと。私は多分生活があまりに平板で、自分の生活圏から飛び出したいと思っているのだと思っています。

 自分にとって、年齢は問題ではありません。私たちの国では、古い世代はやはり伝統的な観念を受け継いで、「女性は結婚して子供を産み」、「いつ結婚するのが一番良くて」、「いつ子供を産むのが一番良い」などと教えています。もちろん伝統的な観念が悪いというわけではありません。一度きりの人生、なぜやりたいことをやらないのか、人からどう思われているか、あまり気にしないで、他の人に合わせる必要はありません。

 重大な決断を下したことに加えて、勉強したい分野の本を読んだりいろいろなリサーチを進めた。 日本で彼らの新しい材料のため、襄の歯の新しい技術の発展の非常によくて、更に人々は歯の磨耗に対してと歯の生理の需要に対してすべてとても大きいので、その歯科はとても発達したのです。日本の口腔医学の専門は世界でもトップクラスです。日本の口腔医学の3つの専門分野は、基礎歯科学、臨床歯科学、社会歯科学です。 とにかく、留学前に多くのことに取り組んだ。

留学中:「人生はチャレンジに必要である」

ここからは私の留学経験ですが、この3年間を振り返ってみると、私は実感しています。 最初に日本に留学した時も心配した。食べていくお金がないのが怖くて、こっちに来て友達ができないのが怖くて、実際には、すべての人が私を含めて絶望や人生の谷を経験したが、痛みは自分自身を疑うが、逆に心の状態と思考の変更があっただけでなくて、感謝して放棄していないので今の風景を見ることができます。違う経験をしたことがある。

 そして重要のなのは留学したからといって人生が終わるわけではないし、成功者になるわけでもない。留学の意義は、別の角度から考えてみると、好奇心を開いて、自分の民族文化の外に出て他国を鑑賞し、異国の環境の下でもう一人の「自分」を形成して理解し、そして多くのことを感じることができる。留学には多くの困難がつきものです。しかも、自分の国での困難よりも大変です。しかし、困難にぶつかったからといって、自分の決定が正しかったかどうかを疑ってはいけません。だから留学は「チャレンジ」でもあります。私はこの挑戦を人生の豊かさだと理解しています。

研究について:

 実際に来日して、信州大学でおよそ3年間学びました。日本の大学院に入ってから、研究は博士生活の主旋律の一つになったと言えます。 私は20167月に中国河北医科大学を卒業後、中国河北医科大学口腔病院に勤務しておりました。その後、研究者の道を目指して、信州大学の大学院進学を希望して、新型コロナウィルス感染拡大下で来日など困難を極めましたが、日本での研究に対する強い意志を持ち201912月に来日し、信州大学医学部研究科に入学しました。2020年4月には医学研究科の大学院に進学しております。指導先生と一緒に「歯科領域における補填材」に関連の研究と実験をしました。現在は、大学院にて「口腔ガン」に関する研究に打ち込んでおります。

研究以外:

 日本に来て留学生活を始めてもうすぐ3年になります。たくさんの面白い経験は異国だからです。 圣诞节(クリスマス)でスキー,夏は不思議を探る徒歩旅行,秋には紅葉と温泉、秋の味覚を満喫しよう。これらの経験は十分に一生の癒しになります。私が理解している癒しとは、私たちが周囲の環境や人から積極的に世界に対応する方法を学んだということです。留学の経験は私を独立して自分でない人にさせて、もしある日私は子供ができたら、彼らもいつかこのような経験ができることを望んで、良い悪いに関わらず、すべて彼らの心を豊かにすることができます。私はこの経験を感じて、そして後の経験は私の一生の中で最も重要で最も貴重です。この経験は私の後半生を新しい書き方に変え、新しい自分を持つことになるからです。独立して勉強する。人生が変わったような気がする。 今までは人生はAしかないと思っていたんですが、留学してから、いろんな人に会って、人生はBCDEだと気づきました。

 アルバイトも日本留学生活の特色の一つです。日本ではほとんどの大学生がアルバイトを経験しています。もちろん私も例外ではありません。コンビニでアルバイトをした経験があります。実は、アルバイトの目的はお小遣いを交換することで、たとえば月6万円、時給1000円で、週15時間働けばいい。大学のアカデミックな雰囲気の中では、英語は通用しますが、就職やアルバイトとなると、日本語が必須条件になりそうです。そのため、語学力を上げることが必要です。

 つまるところ、私たちは誰もが勇気を持って意思決定する能力があり、自分の意思決定のために努める人になることができます。いつも自分を励まして「何をしても遅くありません」。他人からの評価は重要ではありません。

留学後:「人生の価値を実現する」

 私は、もうすぐ大学院を修了します。卒業後は臨床実践に関系する仕事に従事すると同時に、口腔癌の学術分野の研究を続けたいと考えています。研究口腔疾病おける科学研究やより多くの方々の口腔健康を守ることに貢献することです。

 海外留学は一種の修練であり、一人の人間が多元的な世界を受け入れる度量であり、世界への好奇心を広げる。世界への好奇心・共感・論理感覚・ダイナミックバランスの処世観を養います。日本に留学したことによって、私の人生は大きく切り開いたと思います。

 経済的基盤が上部構造を決めると言われていますが、精神の花園が葉を繁らせ、たくましいものであってこそ、人間の生命は力強い「不死鳥」のような生命力を発することを忘れてはなりません。留学時代は精神の花園の強力なシャーレであり、自分の精神世界の啓蒙が遅れている人が多いかもしれませんが、海外で生活することは二次成長のきっかけになるに違いないのです。 留学経験は十分に一生の癒しになります。

以上が、自分が留学を通じて理解した人生の豊かさです。ご清覧していただき、誠にありがとうございます。

 

 

 

優秀賞

なぜ他の国ではなくて、日本?

氏名:CHIN WAN TZY(チン ワン ジー)

信州大学工学部電子情報システム工学科1年

出身国:マレーシア

 

 「なんで日本にきたの?」と私はよく聞かれる。それは特に日本に来てから今までも初対面の日本人との会話の始まりだった。「アニメが好きだよ」「日本文化が面白い!」と多くの外国人が答えるのだけではなく、私もその1人である。ある日、初対面の日本人学生と話す機会があり、その問題に対して普通は練習せずに逆にしても答えられるはずだが、彼女の質問は「なんで他の国ではなくて、日本に来た?」という質問だった。「なんで他の国ではなく、日本?」をどのように答えればいいのかについて悩んてた。その夜、大学から帰る時に月と数えられない星を仰ぎながら、南方向の遠い海を越えるマレーシアの実家の両親、2人の弟と友達のことを思い出し、しくしくとホームシックに落ち込んでしまった。

 日本文化理解の行列に割り込んできた外国留学生の私、母国で高校を卒業してから2年間の朝と晩もない700日間位で日本語勉強を全力投球していた。だが、日本の大学入学試験(EJU)の日本語試験でトップ10パーセントの日本語レベルに達しても、日本語能力試験(JLPT)で一番高いレベルN1に合格しても、日本文化に対する知識は僅か日本の小学生レベルだと感じている。その中、文化要素がたくさん含まれる敬語の使い方が、まるで英語ローマ字のABCしか分からない小学生が15世紀イングランドの詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)が書いた154ソネット集(154 Sonnet)を読むように、その背景、文化、社会構造を分からないと理解できない、正しく使えないはずなのだ。私は、その小学生の1人だ。

 マレーシアという多言語、多文化、多習慣と多伝統社会で生活してきて、マレー語、英語と母語である中国語を小さいころから学校で学ばなければならないため、頭の中で言語の切り替えるスイッチも自動的にオンとオフができている。例えば、マレー系と会話すると自然にマレー語が口から出てきたり、宗教に敏感な言葉を自動的にメモリーから削除されたりする。しかし、国王に対する尊敬語以外に、この3つの言語、文化と習慣の中に、日常生活で敬語を使う言語と表現のし方と言えば、実はゼロだ。この3つの言葉には日本語の敬語表現という概念と似ている部分があるかとどうかについて、やはりよく考えてもあまり思いつかない。日本人も「どうして日本は敬語があるの?」と考えたことがある?と知りたくなった。

  来日最初の頃、何でもかんでも「いつもお世話になっております」と最後に「よろしくお願いいたします」はメールに絶対に書かないといけないと頭がよく覚えていて、問題なさそうにメールを書いたが、先生は「いつもお世話になっております」を使わなくてもいいと指摘されていただいたことがあった。そして、日本に来て半年経って、日本人学生の輪に溶け合うためにサークル活動に参加したが、話し方の変更が苦手なため、先輩たちに丁寧語を使わなかったことがある。当時、見た目はほぼ同じくアジア人であるし、マスクをかぶっている関係もあるため、外国人であることが知られていなかったため、当たり前のようにマナーのない人間として扱いされた。敬語を使わないマレーシアでは、年齢に気づくことがほとんどなかった。年上だから距離を取ってしまうということも普通になかったのだ。私は日本語を他の言語と同じにようにスイッチをオンオフできるのは、来て3年目の現在つまり大学に入るための日本語教育2年間を経て、通っている大学の同級生と比べて浪人以外は少なくとも2つ年上だ。同級生と距離を取ってほしくないから、年齢を言うのも恥ずかしくなり、学年や年齢の関係で敬語を使うかどうか迷った時もよくある。同級生に最初は「日本語が上手い!」と褒められた後、自分の生まれ年が知られたら、直ぐ「日本語はお上手ですね。」と年上のお姉さんに扱われ、知らないうちに距離を離れられた。

 敬語の文化背景は言葉に表現するだけではなく、その副産物である謙遜語とまるで姉妹のような存在に感じる。日本語の教科書に書いてある謙遜表現に対する答えの内容は「日本語上手ですね」と褒められる時の返事に対して「まだまだ、苦手です。」と答える表現し方について理系出身の私には分からない。褒められる時は普通に「ありがとうございます」と受け取ればいいんじゃない?と理解できなかった。「まだまだです。」と謙虚すぎると自信がない印象を相手に与えるのでは?と結局、分からないまま円周率は3.14159265359に止めておこうとすることように「これ以上はもう聞かないで!」と周りに言われ、質問記号から句点記号に変えてしまったのだ。その結果、コロナによる日本の入国制限が緩くなったため、ホームシックを潤いためにマレーシアに帰って、「あなたはなんかかわったね」とマレーシアの仲良い友達から言われて、いつもストレートで、すべて直球を人の顔に球を投げていたのに、行動から言葉遣いまで婉曲になったと評価か批判かと戸惑いながら日本に帰ってきた。

 ホームシックとスイートホームを感じてきた私は、やがって「なんで他の国ではなくて、日本?」という質問が解けた。それは、他人に配慮をしたり、迷惑をかけないようにしたりすることはここ、つまり日本でしか感じられないが、わたしもその深い影響を受けた。学生の中でよく「KY」という言葉を聞いて、空気が読めない略語であることを知って、面白かった。自分の気持ちも大切だが、周りのことも考えたり、いろいろなことを教えてくださる方々に自然に謙遜語を使うようになったり、新しい視点から見たりすることができた。さらに、その言葉から温かさが感じられるのだ。ところが、謙遜文化は日本人の独特な文化でもあり、魅力でもあると思うが、本当に自分が努力した結果に対して自慢を持ち、自分にもっと自信を持たせるように「まだ、まだ、苦手です」より「ありがとうございます。もっと上手くなります」のほうを日本人の友達に伝えたい。

 日本のいろいろな文化を積極的に体験しに行き、ぶつかり合う出来事を感じなから日本の生活を楽しむことこそ、日本に留学する意味がある。その違いを知ろうとしないから分からないまま、一生誤解するのだ。日本語の裏に隠れている文化、習慣と伝統等々、日本で理工学を勉強しなら、日本の奥深さを初めて徐々に分かるようになることは私にとって、人生の中でとても貴重な経験である。もしまた「なんで他の国ではなくて、日本?」と聞かれたら、今の私なら日本人自身も分からない内容も絶対、悩まずに答えられる。日本に来て、本当によかった。

 

 

 

優秀賞

よりよい社会のために私ができること

氏名:ZHANG XIN(張 しん)

信州大学繊維学部応用生物科学科4

出身国:中国

 

「大学でどんな研究をしているか」とよく聞かれる。簡単に言うと再生医療関係の研究で、少し詳しく説明すると、豚の組織を使用した人の体に移植できる材料についての研究だ。なぜこのような研究を選んだかといえば、私は以前中国の大学で臨床医学を専攻し、神経・精神医学関係の研究に携わっていた。その間、関連知識を積み重ねるにつれて、疾患の治療に対して自分の見解をもつこともできた。人の神経系が再生しにくい組織なので、損傷を受けると、それは中枢神経か末梢神経かに関わらず、治療とリハビリによって元通りの状態に戻れるのはごく一部の症例で、たくさんの患者は後遺症と長らく付き合って生きていかなければならない。パーキンソン病、アルツハイマー病など、未だに有効な治療法が見つかっていない神経系疾患もある。神経系は体の様々な機能を制御しているため、神経疾患の後遺症は体の麻痺や言葉、記憶の障害など多岐にわたり、患者の日常生活および仕事に支障をきたすため、身体的、精神的に患者本人とその家族を苦しめるのは言うまでもなく、特に人口高齢化、少子化、労働力不足などの課題を同じく抱えている日本と中国社会にとって大きな負担になる。

 神経系疾患の治療は様々な方法が研究されているが、根本的な治療として最も期待されるのはやはり移植・再生医療、いわば障害を受けた部位に健全な神経組織を移植する、もしくは損傷した神経を自ら再生させる方法だ。しかし、移植・再生医療が抱えている課題は、ドナー不足以外にもたくさんある。私の研究分野で例を挙げると、手の指を支配する神経がケガなどで損傷を受けた場合、現在の一般的な治療法は、患者のふくらはぎなどから感覚神経を切り取って腕の神経に繋げる、いわば自家神経移植だ。患者自身の神経を使って拒絶反応が起こらないので、完璧に治せるではないかと思われるかもしれないが、実際はそうでもなく、移植された神経は新しい部位でうまく機能しないほか、神経が採取された足にも痺れや痛みが残り、効率的な治療法とは言えない。患者がもともと指先を使う仕事をしていた場合、そこから仕事を変えなければならない。最悪の場合、仕事を失い、生活を維持できなくなる可能性もある。そこで私たちは、比較的に再生しやすい末梢神経の再生能力を高めることによって末梢神経障害を完治し、患者の労働能力やQOLの向上、そして健康寿命の延伸を目的として研究を進めている。

 ここでは、もう一つの社会的課題に言及しなければならない。食肉は私たちの毎日の食卓に欠かせないもので、体にタンパク質、ビタミンおよび必要なエネルギーを提供する。スーパーなどで簡単に入手できる食肉だが、その生産にも化石燃料などの資源がたくさん消費される。1kgの肉を作るのに、7.58リットルのガソリンが必要だといわれている。これは、世界的なエネルギー問題、環境問題に拍車をかけている。私の研究は、食肉による課題を直接に解決できないが、たくさんの資源を消費して飼育した食肉動物の有効利用に貢献できる。例えば、豚の体で私たちが普段料理に使っているのは、その筋肉、脂肪と骨、内臓は肝臓、心臓、隔膜なども食べられているが、脳や脊髄は食材としてあまり馴染みがない。需要が少ないためよく廃棄される豚の脳と脊髄は実際、真空の中で圧力をかけるなどの処理を経て、移植用材料、あるいは人の組織の再生を促進する栄養素に変換することができる。天然素材由来、そして拒絶反応の原因となる成分が取り除かれたので、人の体と相性がよく、神経障害の理想的な治療法として大いに期待されている。

 この移植用材料はアジアでまだ研究段階で、治療手段として人の体に植え込むに至っていないが、末梢神経障害への応用まで、もう一息というところに来ていると、私は思っている。そして、これの実現により、神経系疾患で体が不自由になって、趣味や仕事を諦めることを余儀なくされた人々が元通りの生活を取り戻すことが可能になる。私はこのテーマに携わってから、日々熱意をもって勉強や実験に取り組んでいる。この分野でまだ初心者なので、実験がうまくいかない時は多いが、「たくさんの人を苦しめている障害が完治できる」ということを考えると、私はモチベーションが上がり、最後まで成し遂げる力と自信が湧いてくる。自分の研究結果がこの分野の発展につながり、近い将来に人が神経系疾患で身体的、精神的な障害が残らない世界の実現を待ち望んでいる。「人生100年」の時代に向けてなるべく多くの人にできる限りまで自分らしい人生を楽しんでいただきたいのだ。

 

 

佳作

初心を忘れず

氏名:黄涛(コウトウ)

信州大学農学部植物資源科学コース4年

出身国:中国

 

私がはじめてこの言葉を知ったのは日本語を勉強し始めたころです。当時、日本語会話の授業を担当する先生が私事で仕事を辞めました。その先生は離職する前の最後の講義の時に、黒板にこの言葉を書きました。「いつになっても、最初の心を忘れるなぁ〜」と大きい声で私達を戒めました。恥ずかしいですが、年月の経過に伴い、今では先生のお名前はおろか顔までも忘れてしまいました。しかし、あの日に先生がこの言葉を私達に教える時の様子及び先生の目の中に輝いている光は鮮明に覚えています。 まるで昨日のことのようです。残念ですが、その時19歳の私はこの言葉の意味を理解できませんでした。大学に入ったばかりの私は志や夢なんかを持っていませんでした。毎日考えることはゲームやアニメ、そして今日のご飯はなにを食べるかだけでした。辛い高校時代を経験したため、気楽な日々を過ごしたかったのです。このような生活は本当に楽しいのか?当時の私はそうと思いました。

 最近、将来の進路についてとても悩んでいます。日本で就職するのか?あるいは故郷に帰って創業するのか?私の2度目の大学生活は僅か5ヵ月間しか残っていないのに、進路はまだ決めていません。あ、そうです。私は大学を2回経験しました。1回目の時は、中国の大学の文系専攻で卒業しました。「月と酒 我が身船旅 風任せ」これは当時に書いた俳句です。自由自在な生活を送りたくて計画や目的もなく、卒業後に塾の先生や、カメラマン、また飲食店のバイトなど様々な職を試しました。最終的に上海のある日系会社で就職しました。給料もいいし、同僚との関係も良かったですが、これは私が望んでいる 生活ではないということをはっきり感じました。何故なら、私はこの生活の中で十分な面白さや楽しみを見つけられなかったのです。 しかし私にとって一体どのような生活は 楽しいのか?私が一生の時間をかけて追求するべきことは何か?分かりませんでした。当時の私は大変迷いました。夜、月に向かって幾度も神に祈りを捧げましたが、答えは見つかりませんでした。

そのとき、高校時代に読んだ「帰去来の辞」を思い出しました。「田園将に蕪れなんとす、胡ぞ帰らざる。既に自ら心を以て形の役と為す、奚ぞ惆悵として独り悲しまん。」ここに答えがなければ、原点に戻ってもう一度探そうという意味です。そうだ、実家に帰ろう、自分の道を探しながら人生を思う存分に楽しもう!当時の私はそうと思って仕事を辞めました。何も考えずに、家に閉じこもって半年間ビデオゲームで遊びました。始めは楽しかったですが、ゲームを一通り終えると、現状を改善することに対する無力感に襲われました。「私は何をやりたいのか?私は何をやれるのか?」心の底からこんな声が出ました。

私のこの20数年の人生を1回振り返ってみると、沢山の小さいころの記憶が湧いてきました。私は子供の時から植物が好きです。1粒の小さな種から、命が生まれ、やがて大木になるのは本当に自然の奇跡だと思います。ずっとこの不思議な力の原理を探ってみたいと思っていました。しかし、高校2年生の時に文系を選んで以来 、自然科学に触れる機会はありませんでした。「じゃもう1回学校に戻って農学を勉強するのはどうか?面白そうではないか?」このように考えれば考えるほど、気持ちは抑えられなくなりました。そして、親と相談して、日本への留学を決意しました。半年間準備をして、やっと日本に来ました。

それ以来、5年余りの時間が経ちました。語学学校一年、松本キャンパス1年、アメリカへの交換留学1年、農学部キャンパスにきて2年半。本当に長いですね。この5年間に私は様々な知識を学びながら 、四季の変遷に伴い自分の人生の道を思考しました。日本に来て、伊那に来て、本当に良かったと思います。伊那谷では春には山々の桜、夏には涼しい夜風、秋には紅葉と黄葉の共舞い、冬にはほかほかの焼き餅があります。また、海を渡って多くの方に出会って、色々な勉強をしました 。その中に、私に人生の知恵を教えてくれた 先生もいますし、苦境に助け合える親友もいます。さらに、私が「夜一人 君が思えば 月に惚れ」と詠むほど好きな女の子もいました。私にとって、今回の大学生活は本当に充実で何の悔いもありません。

しかし、どんなに楽しい時間もいつか終わりの時が来ます。私は来年の3月に卒業します。ちょっと残念ですが、こんなことを3回も体験したくありませんね。将来に対しては前回卒業した時と異なって、今回は私には計画があります。小さい農場から、一歩一歩努力し続けて大きな 農業会社を作り上げたいです。しかし、卒業の日は近づいてくると、私はだんだん不安になってきました。自分の構想は計画通りにうまく実現できるのか?そのため、躊躇しています。「道を迷ったら、一度最初の原点に戻って、もう一回問題を考えるのはどう?」これも恩師から学んだ道理です。

4年前に、私は大学入試の時に提出した志望理由書に 「私は将来、故郷の農業生産を一新したいです。地元の農業イノベーションを起こしたいです」と書きました。自分はずっとこの夢を抱いています。私は小林一三に憧れていて、将来には彼のような経世済民の男になりたいです。そんな偉いことができなくても、この世界に私が存在していた痕跡を残したいです。この一度だけの人生を平凡に過ごしたくありません。

私は長野の夜空が好きです。人生で初めて、こんなに美しい明るい星空を見ました。本当に感動しました 。ところが、知らず知らずのうちに、この感動は恐怖になりました。「天の蒼々たるは其れ正色なるや」2千年前に荘子はこう問いました。人は身近な物しか見えません。私も宇宙に多くの疑問を持っています。「宇宙人って本当に存在するか?もし存在すれば、私達はどうすればいいのか?そもそも、我々人間は一体どのような存在なのか?」この一連の問題を考えると、突然に「嗚呼、私はいつか死ぬ」ということを意識しました。その時点から、私の世界が変わりました。「私は死にたくない。私は何故この時代に生まれたのか?」もし、私が千年前に生まれたなら、平凡な一生を送って、こんな問題は考えないはずです。もし、私が千年後に生まれたら、寿命の長さを心配する必要がないでしょう。しかし、私達がいる世界にはこの「もし」は存在しません。残酷ですが、事実です。

「心に望起らば 困窮したる時を思い出すべし」徳川家康公は子孫にこの言葉を残しました。無数の英雄豪傑が歴史に自分の名を残しましたが 、彼らはエアコンを使ったことがありません。私のように冷房の中でのんびりアイスを食べるのができなかったでしょう? こう考えると、 時間や寿命など人力で変わらない物に執着しなくなりました。私はいつになっても、自分が人間であることを覚えていればいいと思います。人間は弱いため、集団で生活します。人間は愚かなため知恵を望みます。これは人間社会がこれまで発展してきた理由ですよね。私もその社会の中の一員です。自分はどんな人であるのか分かりませんが、今の私は農業をやると満足し、自分の手で自然を育むことに喜びを感じることをはっきりわかっています。 惑わずに、命が尽きるまで、この初心を忘れずに私らしく生きていこうと思います。

 

 

 

佳作

留学の際の人間関係の重要さ

氏名:インヒュボルド ホンゴロ

信州大学工学部物質化学科2年

出身国 :モンゴル

 

 あなたは今、孤独を感じてないですか?自分と1回向き合って孤独かどうかを確認してみてください。

 私は日本に留学するのが中高生からの夢でした。その夢を達成するために、日本語を教える学校に通い始め、日本語の勉強や日本留学試験に必要とされるあらゆる勉強に励みました。日本留学という夢への旅の中で出会った仲間がいっぱいいます。みんなと一緒に頑張っているうちに、その夢が目標へと代わりました。今、気づいたらとっくに友達みんなで日本に留学していて、中高生の時に夢に見ていた生活が当たり前なような毎日になっています。

留学に限らず18歳から20代前半の間は多くの学生たちの人生での初めての大きな第一歩のチャンスが生み出される時期だと思います。例えば、一人暮らしを始めたり、恋愛が始まったり、成人になり自分で責任を持つようになったり、親の期待に応えることになります。この第一歩は非常に重要であり、間違えたら今までの人生が一変することもあり得るでしょう。私は日本に留学してきてから、初めて1人暮らしをして、最初の1週間ですぐにホームシックになり、2回ぐらい泣きました。それ以降は泣くことがなかったが、その最初の1週間で感じた感情は私が人生で初めて経験した気持ちでした。それを一生忘れられないと思います。なぜなら、人生で初めて孤独を感じたからです。

 友達みんなで日本に留学してきたが、全員が違う都道府県の大学や専門学校に通っています。そのため、前みたいにみんなで毎日交流したり、ご飯を食べることがなくなったから、留学の最初の1年目は少しずつ友達との関係が薄くなっていくように感じました。しかし、夏休みや春休みなどの長い休みがある期間を使ってみんなで集まり、いっぱい話し合うことができていました。

2年目は1年目より勉強の量が増加し、日本生活が楽しいという感じがなくなっていきました。その年も前のように、モンゴルから一緒に留学してきた友達みんなで集まり、話し合い、みんながいつも通り元気にしている姿をみました。その友達の中で性格が最も明るい親友のジャワは初めて日本に留学してきたときは自分の日本語に自信を持てなくて、大変そうに見えていました。2年目になるとジャワは日本生活にとっくに馴染み込み、いい生活を送っているように見えました。ある日、ジャワとジャワの家まで電車でいくことになり、電車を待っていた瞬間に、ジャワは急に身体を縮ませ、泣き出しました。突然すぎて私は何をすればいいのかがわからず、彼を抱きしめ、慰めようとした。ジャワは15分間ぐらいそのまま泣いていました。彼が落ち着いたタイミングで、理由を聞き出すと、彼は2年間ちゃんとした人間関係がなく、いつも孤独に生活を続けていたそうです。そう考えてみると私も中高生の時みたいな人間関係がなく、モンゴル人の友達で集まるのも年に数回しかなかったため、たまに悲しんでいた時がありました。しかし、ジャワの場合は、自分の日本語に自信を持てなく、日本に住んでいるのにも関わらず日本人や自分の学校の先生たちともうまく関係を築くことができなかったようでした。それに加えて、アルバイトや宿題などの締め切りに追われていた毎日だったそうです。また、個人的な事情もあったでしょう。このような生活を彼は2年間も自分の感情を無視して続けていました。人間関係というものは人間の生活の中で最も重要なものだと言ってもいいと思います。彼はずっと孤独でいたのは間違いないです。ジョー・コックス孤独問題委員会の報告書によると、孤独でいるのは1日タバコ15本吸うのと同じぐらい健康に良くないという研究結果が出ています。孤独だけでこんなに被害が大きいのに、それにアルバイト、勉強、個人的な事情などが加わると人は簡単に鬱になり得ると思います。当時のジャワは間違いなく鬱になっていました。しかし、私は彼を気づかず、何もなかったように接してしまっていました。その時、自分が「友達失格だな」と思いました。そして、私が気づいたのは「人の大丈夫か大丈夫じゃないのかは人間の目では全く見分けられない」ということでした。

 人は他の人との繋がりがなければか弱い生き物です。自分の目標を達成させようとしてどれだけ頑張っても孤独だとできることは数少ないと思います。留学してくる学生たちはできるだけ知識を深めて、祖国で生かすという大きな目標があり、勉強し続けることが大事です。しかし、その際に自分を見失い、孤独に落ちたら勉強するどころではなくなります。そのため、留学生だけに限らず、人間は定期的に自分と向き合い、孤独かどうかを確認することが必要不可欠だと思います。

 

参考文献:

相原孝夫、日経ビジネス、「職場での孤独は、1日タバコ15本分の害悪」

  URLhttps://business.nikkei.com/atcl/plus/00009/080200004/ (2022119日 アクセス)

 

 

 

佳作

留学によって切り開く私の人生

氏名:オリギルサイハン ゲレルトヤ

信州大学経法学部2

出身国:モンゴル

 

 私は2年前の桜が咲いていた時期に、日本に来ました。それは私にとって新しい人生の始まりでした。新しい場所で新しい出会いが待っている―そんな新しい人生を迎えて、勇気や希望を持って松本に到着しました。荷物の重さや長い旅路の疲れよりは、日本の生活への期待が強かったのです。新しい友達もできるし、勉強は頑張ればできるはずだと思っていました。居心地のいいように、部屋も整えました。それは、以前からイメージしてきたものだったので気づかないうちに笑っていました。実際に、先輩たちが会いに来てくれたり、新しいところを次々と発見したり、日本の生活に慣れていきました。しかし、そんな幸せな日々はあまり長くは続きませんでした。

 1年生の時は信州大学に合格出来て嬉しくて、勉強や生活も順調だったのが、時間が経つにつれて精神的に不安定になり、そのためそれまであった期待や喜びが一瞬で消えてしまいました。家族から遠く離れ、誰もいない部屋に1人ぼっちでいることに初めて寂しさを感じました。そんな時、私の心の奥に隠されていた自分の不満足さや将来への不安や心配が現れてきました。

 高校のときから日本留学を目指して一緒に勉強してきた友達が東京大学に合格し、いろんな人から尊重されるようになりました。もちろん、私は友人の合格に誰よりも嬉しくて、一緒にその幸せをお祝いしてきました。しかし、周りの人の目は彼女だけを見ていました。少なくとも私はそう思っていました。彼女は先生方の自慢の生徒になり、先輩たちは「東大に入学できた子に会ってみたい」と自ら出向き、皆の視線は彼女に向きました。

 彼女の周辺の現象に、私はそれが当たり前のことだと分かっていましたが、どうしても私は自分を彼女と比べるようになりました。こんな状況の私に今できることは、前を向いて頑張ることだけだと思いました。しかし、私自身の不満足感は何事にも反映されるものです。自分を信じることができないからやっていることのパフォーマンスが下がり、その作業での自分の魅力がなくなります。自分のできることも出来なくなるまでの副反応がありました。

 去年の春、私の弟がフールー奨学金を取って私がいる日本に留学しました。家族から遠く離れて1年が経っていたので、弟との再会は幸せで胸がいっぱいでした。弟は私の勇気や希望の星、どんな時でも頼れる、いつもそばにいる、そんな大切な存在です。弟は皆に優しくて、いい聞き手で、誰とも仲良くなるのが早いため、たくさんの友達に尊敬されていることは1回見ればすぐ分かります。もちろん、弟は両親の自慢の子です。耳が柔らかく、周りをよく配慮して行動するので、皆に愛されています。

 しかし、母の一つの行動が私の心を破りました。それは家族とのビデオ通話をしていた時、私の話にあまりにも興味なさそうだった母が、弟に向かって「私の息子は最近どうだ」と話しを変えているところに私はちょっとだけ考えてしまったようです。「自分は両親や友達、周りのすべての人に必要とされていないんだ、私がいなくても済むだろう」と考えていました。

 世界中の人々の中には、自分の人生で少なくとも一回ぐらいはこんな気持ちになったことがあったのではないでしょうか。一人暮らしを始めた時、留学をした時、それとも普通に新しい環境に入った時にこんな精神的な変換を感じます。自分の選んだ道に迷い、それらを失敗と思い、自分の存在を拒否する時期が誰にもあると思います。この精神的な罠から脱出した自分の経験を皆に共有したいです。

 どんなに自分を明るくして、元気を出そうとしてもうまくいかない時期が人にはあります。そんな時、自分の気持ちを避けて、無理やり元気なマスクを付けるよりは、その時に感じているすべての気持ちを受け入れて、自分の中を深く覗いてみてください。なぜなら、あなたが今まで避けてきた消極的な性格や不満足な自分などはあなた自身の一部だからです。あなたの中のどこかで何年間も積み重ねた、あなた自身の弱点のすべてを持つ小さな子供がいるはずです。その怯えた子を抱きしめてください。泣いても構いません。なぜなら、それはあなた自身だからです。

 自分の恐怖と弱さを完全に分かった後に、自分を改善させるステップが来ます。私はこれまでの私の物事に対する考え方が間違っていたことが分かりました。スタンフォード大学心理学教授キャロル・S・ドゥエック (Dr Carol S.Dweck) によると、学業・ビジネス・スポーツ・人間関係に対する成功と失敗、勝ち負けは、“マインドセット”で決まるそうです。私は自分の“マインドセット”を変えたら、人生の色が見えてきました。本当の自分を見つけて完全に受け入れたから、その後は自分を東大の友達と比べることはしないし、親の自慢の子ではないかとも迷わなくなりました。私たちは友人関係を強くして、それぞれの分野で可能性を越えるくらいの頑張りを持ち自分のやりたいことをやっているから、誰よりも綺麗に輝いていると思うようになりました。また、母にとっても私はいつもの大好きな長女という事実は変わらないのです。家族というのは、何の条件なしで私たちをそのまま受け入れる唯一の存在なのです。

 このように、留学2年目で精神的に強くなり、大きく成長できたと思います。自分に迷わず、何でもできると信じて今までやってきたことを続けること、今、私がここにいられるのは先生方、家族の皆、友人たちといった多くの人のおかげなので、感謝の気持ちを伝えるのが何よりも重要だと思います。人生は美しい。そのことに感謝しつつ充実した毎日を過ごすこと、それが一番大切なことではないでしょうか。

 


佳作

日本に夢があるが、焼きそばがない

氏名:HONG JING HUI(ホンジンフイ)

信州大学経法学部応用経済学科3年

出身国:マレーシア

 

 皆さん、日本での暮らしは楽しいだろうか。皆さんは夢を抱いて日本にやってきたので、大変なことも色々あったと思うが、充実の毎日を過ごしているであろう。しかし、皆さんはきっと日本で楽しい暮らしを送りながらも、思いをかけている物事も必ずあるだろう。私にとって、それは祖母の焼きそばだった。

私は、いわゆるおばあちゃん子だった。親と離れて暮らしているわけではないが、親は私の小さい頃からよく、朝起きる前に会社に通い、寝たころに帰ってくる。その間、私の世話をしてくれたのは、私の祖母だ。私はやんちゃな子で、祖母には色々面倒をかけていた。それでも、祖母はこんな私を、自分なりに一生懸命愛してくれた。私の大好物は、祖母の作る焼きそばだ。私が悲しい顔をするときに、または、ご飯を食べたがらない時に、その30分後、食卓の上には必ず焼きそばがある。

私が日本留学したいと祖母に言った時、祖母はまるで何もない顔をしていた。祖母は2年間だけ小学校に通っていたため、子供たちに、孫たちに、しっかり教育を受けてほしいという思いが強かった。そのため、私の決断に対して、祖母はきっと心から私のことを応援していただろう。しかし、1度だけ、夜になった時、祖母は私に「何でそんな遠いところに行っちゃうの?会いたいときに会えないじゃない」と、私に向かって愚痴を言った。その時、私は初めて、日本に行こうとすることに、少しだけ後悔した。私が日本へ出発する前に、冗談で、「ばあちゃん、私はもう日本に行くよ。もう帰ってこないからね」と祖母に言った。祖母はその時、何も言わなかった。ただただ私のことをずっと見つめていた。約数分後、祖母は「気をつけてね」と、私につぶやくように言った。

コロナ禍で、私は日本にわたってしばらくマレーシアに帰ることが出来なかった。いつ帰れるのかもわからない状況だった。再入国ができたり、できなかったりしていたから、いつも希望と失望を繰り返した。その間、私は一度だけ、焼きそばを作った。日本に来る前に、祖母に手取り足取りで教えてもらった焼きそばの作り方は、しっかりと覚えている。その時に作った焼きそばの味は、今でも覚えている。麵と醬油の味と、涙の味がした。味は決してまずくはない、むしろ、おいしいほうだと思う。でも、いやな味だ。私は、自分の作った焼きそばを、水を飲みながら、ものすごく速いスピードで食べた。その味を、水で薄まるように。私が焼きそばを作ったのは、それきりだった。

マレーシアに帰れない時、私はよく、祖母とテレビ電話をしていた。お互いに話題がないため、テレビ電話はいつも早く終わってしまう。祖母がいつも決まって、「学校はどうだった」「ご飯ちゃんと食べてる」だけを聞く。孫娘と話がしたいが、何を話せばいいのかわからない不器用さ。何よりも愛おしい。祖母以外に、私もたまにおばたちと連絡をとっているが、その際、よく彼女たちから聞いたのは、祖母が胃痛で病院に通うことだ。しかし、祖母の口からはそのことを聞いたことがない。私に心配をかけてほしくないのだろう。あるいは、私に怒られたくないからだろう。祖母は味の濃い食べ物が好みだった。胃の調子が悪いにもかかわらず、よく濃い味のする料理を作って食べている。私がマレーシアにいた時なら、「体のことをちゃんと考えてよ。私がいなくなったらどうするの」と、祖母に向かって強い口調で言う。それに対して、祖母はいつも、悪いことをした子供のように、黙っていた。よく、年を取ればだんだん子供っぽくなるというが、それは本当だった。

今年の2月に、私は日本に来てから、初めて帰国した。帰国した後、ずっとしたかったダイビングをしたため、実家に帰るのは、およそ帰国後の三週間後だった。実家に帰ると、食卓には、山盛りの焼きそばがあった。私は手を洗うことも忘れ、飢えたオオカミのように、山盛りの焼きそばを完食した。焼きそばの中には細かい鶏むね肉、味付けは醬油だけで作られていたが、焼きそばと涙と、家の味がした。その涙は、嬉しい涙でなく、悲しい涙だった。この焼きそば、この幸せを味わえるのは、いつまでなのだろう。考えたくもないのに、ついつい考えてしまう。

私は今、大学3年生で、大学院に進む予定がないため、就職を考えなければならない身になった。私の夢は、昔から大好きな日本で働くことである。卒業後、日本で就職することが、私にとっては当たり前のことだったが、いざという時は、祖母の焼きそばを思い出して躊躇してしまう。大学生なら、長期休みで、マレーシアに帰って、合計年に四か月近く家族と過ごすことができるが、就職したら、その機会がなくなるだろう。その上、祖母はもう年を取ったので、なるべくそばにいてあげたいと思っている。そのままマレーシアに就職しようと考えたことは何度もあったが、それでいいのかと自分に問いかけてみると、はっきり「はい」と言えない。なぜなら、マレーシアの給料が低いからだ。これもまた現実的な問題である。マレーシアの日本企業で現地採用をしてもらったとしても、マレーシアの新卒の給料と比べ、ちょっと高いぐらいだけだった。わがまま言って日本に行かせてもらったので、それなりに家族・親戚たちの期待を背負っている。夢と家族、どちらも捨てがたい。しかし、どちらかを選んでしまったら、もう片方をある程度犠牲にしなければならない。

その葛藤は、私の中で、何か月も続いていた。そのバランスを見つけたのは、ほんの最近だった。そのきっかけとなったのは、友達の鼻歌だった。マレーシアに帰った時、友達とよく遊びに行った。その友達の中の一人が、よくお互いが会話のない合間に、ドン・キホーテのテーマソングの鼻歌をしていた。近年、ドン・キホーテはマレーシアで出店されたため、友達はよく利用し、その歌を覚えるようになったそうだ。そこで、私はあることに思いついた。それは、日本で、マレーシアに進出している企業の下でしばらく働き、海外勤務に配属されるように能力を養い、マレーシアに配属されることである。それなら、給料も高いし、マレーシアと日本の懸け橋となり、マレーシアの進歩にも役立つ。何よりも、祖母に会いたければ、いつでも会える。私は今、それを目標にし、行動している。せっかく日本で働けるのに、もったいないと思う人も多いだろう。実際のところ、友達はよく、私の決断に対して、「残念だね」「もったいないことをしたね」とよく言う。でも、私はそう思わない。夢が日本にあれば、いつだって行ける。しかし、私の焼きそば、私の祖母は、一度失ったらもう二度と帰ってこない。

日本は素晴らしきところだ。食べ物もおいしければ、風景もきれい。日本に働き、そこで定年生活を送りたいと今でも思っている。でも、しばらくの間は、私はまだ、焼きそばのあるところにいたい。

 

 

佳作

留学によって切り開く私の人生

〜日本への留学によって私が得たもの〜

氏名:アラタンジヤ

丸の内ビジネス専門学校ビジネス科2年

出身国:モンゴル

 

私は留学生として日本に来ました。モンゴルから日本に来て、いろいろな気持ちと緊張感もありました。ですのでモンゴルから日本に来るモンゴル人がどんな気持ちがあるかと思い、このテーマにしました。

海外生活のいいところは、外国語の知識が身に付く、教育、文化について学ぶことで、国際的な知識を得て、将来、視野を広げ、外国人の友達ができ、自分自身を成長させるなど、他にもたくさんの良いところがあります。しかし、海外での生活は、大変なこともあります。慣れない外国での生活と、家族と離れること、家族への思いです。海外に来たら楽しい人生を送れると思っている人は多いですが、最初は思ったようにうまくいかず、大変なことも多いです。私も、(大変だったこと)家族と離れるのがつらくて、毎日家族と会いたいと思ったことが多かったです。子どもが私に「会いたい」と言った時、最初はむずかしかったのですが、子どもが将来日本に留学できるように外国語を勉強するしかありませんでした。家族に心配をかけないよう、大変なことは隠します。家族には、「生活はすべてうまくいっています。楽しい」と伝えました。私も、モンゴルに家族がいますので、家族とすごす時間が減り、子供と一緒にすごし、成長をみまもる時間がないです。海外に住む人はみんな、自分の国で、家族みんなで一緒に幸せにくらしたいと思っています。家族とすごす時間はとても大切です。私が日本への留学を決めたいちばんの理由は、日本人の習慣や歴史を学びたいと思ったからです。

日本人はまじめで勤勉な生活と、時間に正確なことで有名です。

日本の文化や、生活環境、働き方など、日本で多くの良い習慣を身に付け、日本語を学ぶことで、自分を成長させ、世界で働きたいと考えました。日本に留学したモンゴル人の多くの理由は日本語を学び、日本の文化、習慣を学びたい。モンゴル語以外の言葉を学び、他の国を知ることで、自分の世界を広げることができます。

日本で学んだことをモンゴルで生かしたい!モンゴルで日本語を教えて日本へ行きたい学生たちを助けたい!などがありました。

現在モンゴル大学では、39ヵ国から3000人ほどの留学生が勉強しています。そのうち2,156人は中国人留学生で、その90%以上が内モンゴルからの留学生です。ロシアから340名、韓国から100名以上、日本から89名の学生がいます。

モンゴルの授業料が安くてモンゴルの文化習慣、モンゴル語などに慣れるために大勢の留学生がモンゴルへ来ます。

 大学を卒業したら、よい仕事につくことができます。私は4年前に日本に来ました。日本の知識と道路のきれいさ、そして、人のやさしさにおどろきました。最初は勉強も仕事もとても大変でしたが、だんだんなれてきて、先生たちと友たちがたくさん助けてくれて、楽になりました。いつも感謝しています。今もっとシアワセになって、妻も留学生として日本に来ました。一緒に一生懸命頑張りたいと思います。日本に留学していた私は、コロナウイルスの影響で世界は大変な状況にあり、国で学校が全部休校になり、とても心配していました。しかし、日本では、マスクを着用し、手を消毒し、社会的距離を保ち、学校に行くことが進められました。モンゴルと日本にこのような対応の違いは、とても勉強になりました。きちんと感染を防ぐ対策をすることで、社会的な活動を全てストップしなくても大丈夫なこと、つまり、人々の努力、知識で、困難を乗り越えることを学びました。もちろん政府の努力もあります。

コロナウイルスの感染拡大は、世界の留学生にとって大変だったのではないでしょうか。現在、日本では旅行も仕事もすることができます。コロナ禍で日本の対応は大変励みになりましたし、留学生を区別しない日本からの経済的支援は大変心強いものでした。いろいろ大変なことがある中で留学生として2022年度「アジア賞」作文コンテストに参加することがありました。

ありがとうございました。

 

 

 

審査員特別賞

過去や現在の苦労と日本とベトナムの発展に貢献する願望

氏名:NGO THI MINH NGUYET

ゴーティミングエット

信州大学工学部の水環境・土木工学科1

出身国:ベトナム

 

 近年、新型コロナウィルスの影響により世界は未だかつてないほどの暗雲に覆われている。私たちは新型コロナウィルスの恐怖と戦い続けている。新型コロナウィルスの流行に伴い多くの学校や企業は閉鎖を余儀なくされた。さらに、日常生活においてもマスクの着用や社会的距離の確保が指示され、これまでにない多くの制約が課された。新型コロナウィルスの発生から約3年がたった現在では規制の緩和や新しい生活様式の浸透が進み人々の混乱も少しずつ収まってきた。しかし、現在でも毎日インターネット上では新型コロナウィルスに関するニュース、数字、統計が流れ、人々を怖がらせている。新型コロナウィルスは全ての人に数え切れないほどの損失をもたらした。私も例外ではないだろう。

 私は、高校生の時に自分の将来について考える中で日本への留学を決意した。自分自身をさらに成長させたいと思っていたが、そのためには、今まで暮らしてきたところから外に出てより厳しい環境に身を置くべきだと考えた。普通に大学に進学し、卒業後は知人の会社で社員として働いていた兄や姉と同じような道には進みたくなかった。兄や姉のような生き方も決して悪くないと思ったが、それでは自分の能力を突破することはできないし、ベトナムの発展に貢献することもできないと感じ、先進国である日本に行くことを決めた。 

ところが、1年後新型コロナウィルスの感染拡大により、日本へ行くことができなくなった。日本へ留学に行くという高校を卒業したばかりの私の欲求は日ごとに少しずつ減少してしまった。留学という夢をあきらめて、もう留学しないほうがいいのではないかと考えていた。この時期は私にとって危機的で難しい時期だった。自分の夢と野心の前に先立って、親友がこの道を離れて別の道に進むのを見てしまったからである。コロナ禍が止まるという約束も兆候もなかった。当時の私にできたのは「諦めるな、辛抱強く、もっと耐えれば欲しいことは必ず手に入る」と自分を慰めることだけだった。

私は技術が発展し、世界中の人々の意志がこの災禍を撃退することを願っている。そうすれば、すべての人々に元の人生が戻ってきて、新たな道と新しい社会がコロナ禍の後に開かれることを信じている。私も準備を整え、道が開けたらスタートラインに立って発砲の音を待ちながら出発しようとしているマラソン大会の映像のように始まって加速した。2022 3 28 日にビザが受理され、同年の 3 31 日の夜に日本へのフライトに出発するという情報を受け取ったことは今でも鮮明に覚えている。持っていく荷物の準備だけでなく、家族や先生、知人への送別も含めて、すべてを準備するのに2日しかなかった

「私は知識を求めるという夢を続けることができ、あきらめないでいいことを非常に誇りに思っている。自分の今までの精神はこの出発のために準備されていた。私を教えてくれ、助けてくれたすべての人に感謝する。誰をもがっかりさせず、これまでの努力を無駄にはしない。」と幸せな気分で皆に伝えた。飛行機のチケットを手に持って、夢に連れて行ってくれる飛行機に座った時、突然泣き出した。自分が努力をやめなかったことを喜んだ一方で、新しい人生が心配になり、両親、教師、または自分が望んでいたことを行うことが不安になったからである。強力な日本の技術と比べると、ベトナムにはまだ何もないため、 ベトナムとベトナム市民が強く発展するために一生懸命勉強する必要がある。わずか6時間のフライトだったが、私にとって人生のターニングポイントのようなもので、一生忘れられない事件であった。

 私の母国であるベトナムは約1000年間中国など様々な国に支配され、百数十年も植民地の国としての歴史を持っている。私はこれがベトナムの発展が遅れたことに大きな影響を与えたと考える。理由は他のすべての国が自国のために勉強、研究、開発に最善を尽くしているとき、ベトナムは平和と国家の独立のために戦っていたからだ。私は歴史の英雄たちの不屈の意志と連帯を誇りに思う。祖先の血を代償にして平和な世界に生きている今日、私と若い世代は手を取り合い、ベトナムという国を建設し、発展させる責任があると思う。私は歴史上の英雄ではないが、ベトナムと我々を助けてくれた国々に豊かな生活をもたらすためにも最善を尽くしたいと思っている。経済や技術などの多くの分野で、ベトナムは今でも日本を模範としてこの戦後により力強く立ち上がる必要があると考えている。

ベトナムと日本は、文化的な親密さや良好な関係などの要因により強固な貿易の架け橋を築いてきた。例えば、ベトナム人は私や他の留学生のように勉強や仕事をするために日本に渡り、日本人はベトナムに投資したり、両国間の文化交流を促進するためにベトナムに来訪したりしている。私が日本に来たこれらの考えから、日本とベトナムの関係と発展のために私は努力をしなければならない。

 私が日本の空港に到着したのは2022年4月1日、新型コロナウィルスの流行がまだ深刻なときだった。空港から見ただけだったが、インフラの整備は故郷の技術とは遠く離れていたし、日本のサービスは素晴らしかった。飛行機を降りてから空港を出るまで、熱心に案内され、空港は本当に快適な感じを持っていた。自分を光り輝いていて贅沢な街に足を踏み入れた田舎娘のように感じた。日本に来てからバスで見ていたすべての景色や通りは、日本が非常に発展していて多くを学ぶ必要があることを感じさせ、記録して知人と共有したいと思った。しかし、私自身、単純にベトナムと比較する必要はないと考えた。なぜなら、現在や将来、私が日本で見て学んだことはベトナムの進歩に役立つ巨大な知識の基礎であると考えているからである。私にとって日本はベトナムを先進国へと導くような存在である。

 信州大学に入学してから、まず語彙を増やす必要があることに気付いた。なぜなら、言語は私にとってコミュニケーションと学習の最も重要なツールだからである。専門知識を学ぶだけではなく、日本の文化、学習方法、教育文化を学ばなければならない。そうすることで、自分が教わったことと他人に伝えるべきことを最もよく理解できるようになると思う。今後は日本とベトナムの発展に貢献したいという希望を胸に、ベトナムと日本の架け橋となる事業活動に全力で取り組んでいく。それが私の願いであり夢である。自分の人生のモットーである「偉大なことを成し遂げる為には、行動するだけでなく、夢を持ち、計画を立てるだけでなく実行しなくてはならない。」を信じている。

 

 

 

 

伊藤賞

浅き夢を見たい

氏名:セルニコラ・ヴァレンティーナ

信州大学グローバル化推進センター交換留学生

出身国:イタリア

 

第1巻・前編

「色は匂へど

    散りぬるを」

大学2年生、日本の古典文学の授業で初めて「いろは唄」を読んで以来、頭から離れなかった。近代まで仮名を暗記するために用いられたこの唄は、子供にも覚えさせ、暗唱させたりしていたらしい。それにもかかわらず、大人にさえ理解しにくく、難解で奥深い意味がある唄だ。内容は「無常」や「もののあわれ」という概念を表現し、この世の最も美しいものは果たして一番儚く、いつの間にか薄れて消えていくという発想が唄の句に潜んでいる。

美しくて儚いものの象徴として、やはり「桜の花」がすぐ頭に浮かんでくるだろう。写真でしか鑑賞することがなかった日本の桜を頭の中で描いてみた。あっという間に散ってしまう。それでも美しい。だからこそ美しい、と思いながら、いつか必ず桜の満開ごろに日本に行って、花見をすると心に決めた。ちょうど翌年、大学3年生の時に奨学金を受け、日本に留学することができた。4月の頭に着いたが、やはり桜はもう散っていた。満開を逃してしまったことにちょっとしたもどかしさを覚えた。なのに、ひらひらと地面に落ちていた桜の花を見て、それでも美しいと、あらためて思った。その時の東京留学は1年間、翌年の3月までの予定だったが、体調不良で仕方なく早めに帰国することになった。

さまざまな経験もでき、思いがけない出会いも多かった刺激的な1年間だったが、楽しみにしていた京都旅行にも行けず、旅から帰ってきたのは疲れの溜まった、げっそりした自分の姿だった。今度こそ後悔しないように早く最初の気力を取り戻してみせるという強い気持ちが前へ進む原動力となった。しかし、数年も経った時点でまだ旅に出る様子ではなく、世界中にコロナウイルスという新しい敵が現れた。自分の不安と同時に、世界全体の不安や葛藤を感じ、複雑に絡み合っていった。その時に生まれた感情の「塊」に圧倒されるような気がした。また日本へ行けるのはいつになるだろうと思った瞬間、いろは唄の最後の句が頭に浮かんだ。

 

「浅き夢見し

    酔いもせず」

 

この世の中になってきた今、その「夢」を見るのは、尚更ない物ねだりなのか?

それでも、浅き夢を見たいと思った。

いよいよ、見覚えのある看板が目の前に現れた。「お帰りなさいませ」と読めば、思わず「ただいま」と、返すように呟いた。しかし、記憶にあった光景とはかなり違う場面だった。私みたいに、国際線から来た外国人旅行者は非常に少なかった。通常、ターミナルに到着したらパッと見えてくる長い列がどこにもなかった。「検疫場」に案内されることが「当たり前」のように感じたのが、私たちの生活がどれだけ変わってきたかを実感させた。以前は滅多に聞くこともなく、覚える必要もなかった言葉に縋るように、頭の中で復唱した。「ワクチン接種あり」、「検査済み」という呪文の言葉で、やっと空港を出た。4年ぶりだった。

日本の状況が落ち着き、入国が改めて許可されたとき、早速留学に応募してみた。奨学金がもらえて、私と、同じ大学の友達1人が今年の3月に出発し、1年間、京都で過ごすはずだった。だが、新しい敵(カブ)が拡がり始めて、留学がやむを得ず中止になった。それで、皮肉なことに、ちょうど3月ごろにコロナに感染してしまった。もし中止にならなかったとしても、感染したことできっと辞退を余儀なくされただろう。しかし、「期待はずれ」で始まった運命が、なんとなく違う方向に進んだ。原則として連続ではもらえない奨学金(チャンス)を特別に与えられたが、今回は行き先の希望を出すことが出来ず、新しい留学先を報告されただけだ。そして、一人で行くことになった。夢が叶うとしても、叶ったその瞬間にこそ、「酔い」を覚ますような何かが起こる可能性があるだろう。それでも今、私は日本(ココ)にいる。

 

第2巻・後編

長野県松本市

 

「縄手通り」商店街が松本の中心にあり、蛙をテーマにしたさまざまな種類のお土産を売っている商店がいくつも連なっている。1日中観光客で賑やかで、「蛙ばっかりだね!」という声がしばしば聞こえる。百円ぐらいの小さな小さな蛙のおもちゃに思わず目を惹かれた。「このちっちゃいやつね、お財布に入れてみると、お金がカエルよ!お金持ちになるよ!」と、店のおじいさんが教えてくれた。お金か….と少しがっかりしたような顔をした私に、おじいさんが優しい笑顔を浮かべた。「それにね、もしかしたらいつか「嘉」「得る」かもしれないね」。

 

 

魅力的な場所だね。意外と緩やかな坂道を登って、しばらくしたら大音寺山の頂上が見えた。道に生えている珍しい植物の眺めと花のいい香りで心が落ち着いた。静かなお堂がある広場で少し休んでから、その下にある滝を見に行く予定だった。松本市の公民館により開催された留学生向けのハイキングイベントに参加した。頂上まで登る予定の「一般登山コース」と、途中まで登ってまた下る予定の「のんびりコース」という二つの選択があった。私は適当に後者を選んだが、せっかくの山登りで山下りを選んでしまったことが少し心残りだった。しかし階段を下ると、気持ちががらりと変わった。不動明王の彫像の隣に小さな滝があった。不動明日がそこの守護人であることから「不動の滝」と呼ばれているが、冬になるとあまりの寒さに滝の水が凍り、まさに「不動」の滝になるのだ。それにしても、滝の流水が「不動」と言われるのは興味深い矛盾だろうと思った。時間の経過を連想させる水の流れが冬になると止まることに感動を覚えた。

ふと、授業で出された俳句を作る課題を思い出した。

 

滝の水

流れて不動

初冬かな

 

私の隣に歩いていた2人を見て、思わず笑顔になった。2人とも留学生で、私と同じように大学の寮に住んでいる。同じ時に同じ道を歩いている2人だが、一人は上着なしで半袖のシャツ、もう1人はかなり暖かそうなセーターにレインコートを着て、マフラーも巻いている。長野県の晩秋は意外と寒く、もう冬に入ったような気温だと言いたくなるが、それは、頭の中で自国のイタリアの気候を「基準」にしているため、このように思ってしまうのだろう。「今日涼しいなぁ」と言う半袖のJくんにとって、おそらく冬の気配さえもまだ感じられないのだろう。一方、このぐらいの寒さでも困っているように見えるMさんがいる。彼女の出身国のインドネシアでは、そもそも1年中、冬と言えるほどの低い気温にはならないそうだ。そこは、乾燥の季節と梅雨の季節があり、カラッとした暑さとじめっとした暑さのどちらかに限る。国によって、季節の特徴がかなり異なることが当たり前に思うかもしれないが、実際に「冬がない」ところもあるなんて、新しい気づきを得たような気がした。国も母語も価値観も全く別々であっても、その2人は何かの縁があり、同じ時に同じ道を歩いていた。そして、私はその2人と何かの縁があり、その時に彼らの隣で同じ道を歩いていた。

 

 

去年の私にとっては、この全てが「浅き夢」でしかなかった。また憧れの日本に来られ、成田空港で「ただいま」と言うことができた。また新しい「他者」に出会い、その他者が気付かせてくれる新しい自分にこれから出会えるかもしれない。半年間の短い間ではあるが、これからの「留学物語」をこの手で書いてみたいと思う。

 

「色は匂へど

          散りぬるならば

 

 

 

山梨YMCA特別賞

自分史「成長」

氏名:パク ミンヒョック

松本大学交換留学生観光日本語学科

出身国韓国

 

私は1999年の寒かった冬のある日生まれた。両親はとても優しくて、私のことをいつも愛してくれた。しかし、年月が過ぎ、私が幼稚園に通う頃からは、父も母も外で仕事をするようになり、1人で家を守ることが多くなった。私はそれが当然のことで、仕方がないと思っていた。幼稚園からはお迎えもなく、真っ暗な道を乗り越えて1人で家に帰った。両親が遅く帰宅したので、1人でご飯を食べた。私の家は二階建てで暗かったので、その暗闇がいつも怖いと思って暮らしていた。私は両親に何も言わなかったが、心の片隅では淋しさを感じていた。暗い家で1人だった幼い自分のことを考えると、今でも悲しくて泣けてくる。

そんな幼稚園時代を過ごし、小学校に入学して、色んな人と付き合い、寂しい気持ちも小さくなった。でも、小さくなっているだけで、なくなったわけではない。その寂しさの塊はいつも心にあって、時々私を苦しめた。小学校4年の時に一緒に住んでいた叔父が亡くなった。それが原因で家庭に不和が訪れ、家庭崩壊の危機に直面した。両親は毎日のように喧嘩をし、数ヵ月は父と母は別れて生活をした。学校に行くことも、友人と会うのも難しくなった私は自然に学校の仲間から抜けてしまい、友人との関係もよくなくなってしまった。この試練を克服するのは本当に大変だった。呼吸することさえ難しい程で、毎日が地獄と同じだった。でも、幼い時の癖で、感情を表に出すことはなかった。幸いにも、周辺の人々の助けと両親の決心によって、私たちの家族は再び一つになり、平凡な家庭に戻ることができた。

大きな変化はしばらく経って再びやってきた。私が中学校2年の時に弟が生まれたのだ。14歳も年下の弟が生まれ、私はとても嬉しかった。かわいい弟に私のように寂しい思いをさせたくなかったので、弟の面倒を精一杯みた。両親の代わりに幼稚園のお迎えに行くことも多かった。1人で幼い弟を暗闇の中を帰らせることは絶対いやだった。母が作り置きしてくれた食事を温めて、弟に食べさせることも度々だった。少しでも両親の負担を軽くしたいとも思ったから、洗濯、掃除も手伝った。中学2年で自分の勉強も大変になっていたが、小さい頃からのクセで、大変な思いをしているのを両親に悟られないようにした。

進路選択でも私は忙しい両親に心配をかけたくなかった。自分で道を見つけて、両親に知らせたかった。高校1年生から2年生に上がる年に理系にいくか、文系にいくか選択をしなければならなかった。私は悩んだ末に詩が好きだったので文系を選んだ。ある日、図書館で日本の歴史に関する本を見つけて、夢中になって読んだ。かなり厚い本を一気に読み終えてしまった。私の高校は外国語は中国語しか習えなかったので、日本語を学ぶ機会がなかったが、日本に興味を持った私は独学で日本語の勉強を始めた。日本語は韓国語に比べて自由で、自分の考えを言葉に込められるように感じた。韓国でも日本の歌は人気があったが、韓国語に訳された歌詞より、日本語の歌詞のほうが心に沁みた。日本語をマスターすれば日本での求職が容易で、将来性があるという記事も私の心に刺さった。私は両親のためにもはやく自立したかった。そして、私は大学で日本語を専攻するという進路を選択したのだ。両親には「進路を選んだ」という喜びだけを伝えた。両親は「あなたが、道を選んでくれてよかった」と言い「いつでもその道が違うと感じたら、戻ってもいいから心配しないで一生懸命やって」という言葉をくれた。

このまま順調に進みそうだった人生だが、そうはいかなかった。弟が問題児に育ってしまったのだ。幼稚園の頃、友達とピンポンダッシュをしたり、物を上から下に投げたりして近所の人達にさんざん迷惑をかけた。その度に両親は迷惑をかけた人々に謝りにいった。初めは成長すればこんなことはなくなると思ったが、甘かった。小学校3年になった今も友だちと口喧嘩をするのは日常茶飯事、勉強にも集中せず、学校からも何度も注意された。食事もお菓子を食べて、用意してもらったものをこっそり捨てたりしていた。両親がいくら注意してもきかなかった。注意すると、泣き、喚き、そして逃げ出すということが繰り返された。

どうしてこんなことになってしまったのか。自分も、両親も弟を甘やかしてしまったことが原因かもしれない。両親は弟がもっと小さい頃、何をしても叱らないで「大丈夫」と言ったりした。私も注意の仕方が分からなかった。私は弟に自分と同じ寂しさを味合わせたくなくて、ついつい弟を過保護にしてしまったのかもしれない。そんな思いは常に私を苦しめた。

 私は現在、自分の選択にしたがって、入学した大学から日本に交換留学している。私は日本語を活かして就職するという目標に一歩近づいたといえる。弟のことは変わらず心配だが、日本に留学して、色々考えることがあった。

 ひとつは私は日本に来て、どこでも生きていけることに気が付いた。ここで生きていけるなら、もっと他の広い世界−アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ−でも生きられると考えるようになった。より人生の選択肢が広がった。

そして、また真の自立ということができていなかった自分にも気が付いた。私はずっと自分が両親に迷惑をかけないように自立して生きてきたと思っていた。しかし実際に一人暮らしをしてみると、そうではなかったことに気がついた。チンをして温めていた料理は母が作ってくれたものだった。幼稚園から1人で帰っても、いつか両親が帰ってきたが、今はアルバイトから帰っても誰もいない。困ったことがあっても、頼れる人はいない。今、本当に1人の生活を経験することで、真の自立の厳しさがよく理解できた。

また、自分で考えて選択することの大切さに改めて気付いた。誰も責めることもなく自分の選択を信じてこそここまで来られたと感じることが多い。両親の「いつでもその道が違うと感じたら、戻ってもいいから」という言葉は実は両刃の剣とも言える言葉だ。誰かにさせられたことをして失敗すればその人を責めることができるが、私が選んだ道だから誰も怒れない。日本留学は寂しいし、厳しいし、後悔したことがないかといえばそうではない。でも、これは自分の選択なので、乗り越えなければならないと思う。弟と自分を比較すると、弟は人に頼ってばかり、そして失敗すれば、人のせいにする。弟はまだ小学生で人生の選択というほどの大きな選択はしていないかもしれないが、このまま大人になったらどうなってしまうのか。

私の幼い頃の思い出は、そうはいっても少し寂しすぎたとも思うし、その孤独は心のどこかで古い傷のように私を苦しめている。でも、今はこのように自立心が身に付いたことを両親に感謝しているし、私はこれからも自分の道を自分で選択してゆける自信がある。私は弟にも自分で自分の人生の選択できる大人になってほしいと思う。

色々な経験をした今、このような大切なことに気が付いた。不安はもちろんあるが、どんな人生を選んでも、結局不安はついてまわる。これからは、こうやって思えるようになった自分の気持ちを内に秘めないで、素直に外に出そうと思う。留学から帰ったら、少し大人になった弟と、両親と、心を開いて、自分の経験を、気持ちを、語り合いたい。