最優秀賞
留学によって切り開く私の人生
KO EUNKYONG(コ ウンギョン)
信州大学農学部農学生命科学科1年
韓国

 私が日本留学を決めたのは家族がきっかけである。高齢化による社会問題が自分の身近で起きたからだ。最近、韓国は高齢化社会を迎え、高齢者の健康問題が取り上げられている。一人暮らしの老人が栄養のある食べ物を摂取しないことで発生する栄養不足問題、記憶力が低下する認知症、生体機能の低下による免疫力の低下の老人の割合が増えているからだ。そして、その問題は私の祖母に起こった。元気であった私の祖母は認知症にかかり、徐々に記憶力が低下していった。外へ出る機会が少なくなり、体を動かさないため筋肉量が減った。そして寝たままの状態になり祖母は亡くなった。祖母は私の名前と顔を思い出すこともできず、ベッドの中の姿が私の最後の記憶となった。
 これから韓国は高齢化がさらに進み、私のような悲しい経験をする人が多くなると考える。しかし、私は家族との楽しい時間を、思い出を多く持ってほしい。それで、健康に問題がある高齢者の人々をどうすれば減らすことができるかを考えた。お年寄りであるため、困難ではないこと、無理せず気楽に健康を守れることは何があるだろうか。そのことを考え続け、見出したことは食事を通じて体を元気にすることであった。私たちは毎日食事を通じて栄養を体の中に取り入れている。そして、その栄養が今の私たちの体を作っていることに気づいた。それで、食事を通じて健康である時から生体機能を調節し、高齢になっても健康が悪化することを予防する、あるいは健康がすでに悪くなっている高齢者がこれ以上悪化することを抑制する機能性成分について勉強することを決めた。
 健康について探している中で、日本は世界的に寿命が長いことを知った。日本は韓国と近く、似ていることが多い国である。だが、高齢化社会を韓国より先に迎え高齢者の割合が多い国であるが、韓国より健康な高齢者が多い国であることを知り驚いた。また、寿命について調べている中で、日本で長い寿命の場所は長野県であることが分かった。また、ピンピンコロリという言葉、病気で苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝付かずにコロリと死ぬことが長野県でできた言葉であることも学んだ。それで、健康と寿命の関係がある長野県で機能性食品について勉強したいと思い、私は日本留学を決めた。
 留学を決めて私は日本の大学に行くために足りない日本語能力を増やすため日本にある日本語学校で日本語と受験勉強をすることを決めた。しかし、実際に日本にきて悩みができた。今までの生活と違う環境で暮らすことになるので適応できるかについて不安だったからだ。小さい世界で生活してきた私にその世界の外は未知の世界であり、怖かった。しかし、私が恐れていたことは無意味であった。そして私は、井の中の蛙大海を知らずであったことに気づいた。今まで私は日本という国をきちんと知らなかった過去の自分が情けないと感じた。本で学んだ知識が日本のすべてだと断定していたに過ぎなかったからだ。留学を通じて見えるようになった日本は私の考えを覆したし、本を通じて学べないものが多くあることを知った。日本人は相手に対して心の深い国であること、些細なことでも気を使う人たちであったからだ。相手のためにある行動をすると、そのことの大きさに関係なく、目礼や感謝のあいさつを表現するからだ。そして、特に驚いたのは交通であった。信号のない横断歩道を渡ろうとするとき、歩行者のために車が待ってくれるのだ。韓国では、同じ状況の時、車が先に走る。理論的には、日本と同様に歩行者優先であることを学ぶが、実際はそうではないということだ。日本は当たり前なことを当たり前に行動する。相手に対する思いやりがある紳士的な国であると感じた。そのような環境での日本の生活は困難なことなく、不便なことなく、気楽に過ごせた。逆にこのような基本的なマナーを守らない韓国のことが逆に恥ずかしいと思った。
 そして、日本語学校を卒業して夢に描いた長野の信州大学に入ることになった。そこで、同年代の日本の友人が初めてでき、皆親切に接してくれた。自然な発音ではない日本語であっても私の言葉を理解するためにもう一度聞いてくれることが親切で、向き合ってくれていると感じた。大学には私の日本生活を手伝ってくれる「チューター」という子がいた。彼女も松本に来るのも初めてで、大学も初めてであるにもかかわらず、私の大学生活を助けてくれたのである。韓国語では分かっているが日本語では分からない専門用語や日本の基本的な知識を教えてくれた。毎週出会い日本について学ぶ時間を持った。私のために時間を割いてくれたチューターにはありがたいという想いがある。チューターは自分のこんな気持ちを知っているかのようにいつも笑顔で答えてくれる。それから、信州大学に来て日本を越え、多様な国の留学生と会う機会ができた。簡単な料理会から意見交流まで、私が韓国にいたら感じられない様々な国の学生達の考えと文化に触れることができた。日本に対する限定された視野を広げただけでなく、外国の視野まで広めるようになったのだ。もし私が日本に来なかったらと思えば、ただ韓国人の視野から世界を見つめ、広い世界を経験することができなかっただろう。留学によって私の人生は変わったのだ。
 私の日本留学は学びの連続である。私は日本留学を通じて多くのことを学ぶことができた。そして、理論的なことではなく、留学を通じて直接学んだことがさらに多かった。これにより、私の考えだけで物事を断定しないようにすることを学び、他国の留学生に関する価値観も学べた。日本人の友達とのコミュニケーション、そして今後の高齢者に対する健康の研究や機能性成分の効果などを学ぶようになることが多くなると考える。1年間で感じて学んだことが、このように多かったのでこれからの3年間を通して学ぶのはもっと多いだろう。今後、様々なことを経験し学び続けることで、一つのことを広い視野で見ることができる人となり、機能性食品について研究し、高齢者の健康問題が悪化するのを予防する食品を、固定観念に縛られることなく作っていきたい。

優秀賞
留学によって切り開く私の人生
古 佳雨(コ カウ)
信州大学経法学部応用経済学科
中国

 人々は留学することに対して、どういうイメージを持っているのであろうか。それぞれの考えが違うにもかかわらず、主な理由は現地の言語を学習することや自分の国より優れた技術を把握することなどである。しかし、私の理由とはまるで違ったので、今でも日本に留学していることはただの運命だと信じて疑わない。
 私は日本へ留学する前に、母国でごく普通の大学に入り、中国の他の大学生と同じように寮でルームメイトと遊んだり、部活をしたりするという生活を送っていた。さらに、毎月の両親の仕送りのおかげでのんびりと暮らせていた。しかし大学に入る前の夏に転機が訪れた。
 偶々叔父叔母は日本に住んでおり、ある日、叔父とビデオチャットで話した時、叔父はこう言った。“お前さ、今の大学を卒業した時に就職するのは競争が激しいだろう。就職の目標は何だろうか考えたことがあるかい?結局はお金を稼ぐことだよ、結婚やら親孝行やら全てのことはお金がかかるじゃないか、中国より日本のほうが確実にお金を得られるはずだ。”叔父がそう考えた理由は中国で働いても、必ずしもお金をもらえるわけではないからだ。身近な例を挙げると、私の父は建築の仕事をしており、中国の北の省から南の省にかけて色々な地域で仕事したことがある。工事を完成させた際、すぐに給料が支払われず、父は非常に苦労した。私はこんなことを思い出すたびに腹が立つ。
 さらに中国の大学はランキングがつけられており、それによると就職活動の時に上位の大学は非常に有利である。しかし、自分の入った大学は上位ではなく、今後の就職は親も親戚も心配しているようである。ところで、祖父は昔アメリカへ留学する機会があったが、父の面倒を看ざるを得ないので、貴重なチャンスは失われた。人生はいつでも選択に直面していると言われている。また、論語の中には「三思而行」ということわざがある。日本語に訳すと、よく考えてから行動することだ。私は20代前半ぐらいなら、多様な可能性がある。今回は留学をせず、将来また留学したくなったとしても、時間や資金など障害があるかもしれない。人生は一度きりしかないので、後悔のない人生を送ろうと考え、日本に留学することにした。
 別の国へ行くのは簡単なこととは言えない。そのために、貯蓄預金の証明書や日本に留学するきっかけ、母との親子関係の証明書まで必要になった。当時、ビザ申請が厳しくなり、日本語能力証明も用意した方がいいと日本語学校の先生に言われた。大学の授業を受けるのみならず、毎週の週末に都心の日本語の塾に通った。すでに書類ができ、無事にビザを手に入れた。それから、空港で母と別れることになったが、母と再会するのは二年後になると思わなかった。
 2016年に来日した。空港に到着した時、日本人には青空が当たり前かもしれないが、本当に初めて青々と見えたのでわくわくした。学校の先生が迎えに来て、学校のバスに乗った。外の風景はバスが移動するにつれ、変化していった。その光景を見ながら、私はぼんやりとした。気付いたら大体2時間ぐらいの時間はあっという間に過ぎてしまった。寮につくと荷物をおおざっぱに整理してから、ルームメイトと日本についてや実家のことなど長く話していた。
 二、三日後、いよいよ日本語学校が始まった。初回の授業を受けたところで、なんだこれと思った。そう思った理由は、授業は全て日本語で行われ、日本語を数年勉強している人々と比べて、自分はまるで別の世界の人のようであった。先生が言っていることも聞き取れないし、先生に自分の意思もうまく伝えられなかったので、ショックであった。一方、来日する前のお金を稼ぐなら日本にこいという叔父の話の通り、すぐ叔父の紹介で飲食店でアルバイトをするようになった。日本語が話せない私がどうやって飲食店で働いたのかは疑問を持っているかもしれないが、やはり皿洗いであった。毎日半日の学校で日本語を勉強しながらアルバイトしていた。そういった生活はおおよそ1年間続いたが、そのままで進むと専門学校に進学し、卒業してからあくまでも工場とか技術向け専門職に勤めることになるであろう。確かにそういう職場で働くのは決して悪くないが、色々な問題点が出てくる。例えば、母国に帰ると新たな職業を探す時に学歴は必要となり、専門学校を卒業した学歴は自分の国で認められていないので要するに最終学歴は高卒になってしまう。学歴社会における大卒者さえ就職難なのに、まして高卒の厳しさと言ったら言うまでもない。さらに、日本で就職するとしても、平均的に高卒の月給は18万円、大卒者は20万円、また博士は22万円である。やはりどの国に行っても必ず学歴社会ということを感じた。
 ところで、大学に入るためには何が必要か、日本の大学は順位はどうなっているか調べなければいけない。色々な情報を集めたところで大きな問題が起きた。日本の大学に入るには日本語能力は最低限の条件であり、それに加えて、英語能力や数学も不可欠である。単なる日本語学校で全ての条件を満たせるわけではないと認識した。早速塾を探したが、場所は家から電車で一時間半である。迷っていたが大学に入れるならそれらを犠牲にしてもかまわない。日本語学校で勉強し、放課後はすぐ電車に乗り、塾に通った。間の時間はアルバイトに行かないわけにはいかない。こういう辛くても目標を持っている生活は半年ぐらい続いた。結局のところは自分の努力によって無事志望校に合格した。
 今は大学に入ってから半年ぐらいが経ち、教育資源を享受したり優れた人々と出会ったりしている。そのことは叔父のおかげや自分の努力も関わっていると決して疑うことはない。常に感謝する気持ちも持つようになった。留学することにより、自立できなかった私は自立できるようになったし、目標をたてずにのんびり暮らしている私もなくなった。この先はどうなるか分からないが、前向きに生きていくのは肝心だと考える。

優秀賞
留学によって切り開く私の人生
LE, THI HOANG UYEN(レー ティ ホアン ウエン)
信州大学農学部農学生命科学科1年生
ベトナム

 私は信州大学農学部の一年生で、23歳の留学生だ。私は今、自分と4歳ぐらいの差がある日本人の学生たちと一緒に勉強している。そのことを話すと「ベトナムの大学で勉強して来たのか」と聞く人がいる。そんなことはない。私は高校を卒業して1年ぐらい日本語を勉強した後に日本に来た。それでも大学に入るために4年ぐらいかかった。なぜそんな長い時間がかかるのだろう。ベトナムの大学で勉強したらもう卒業して就職できたのに、4年間が無駄になったと考える人がいるはずだ。私もたまにそんなことを自分に問いかけることがある。
 それを説明するには留学する目的から話さなければならない。私が留学する目的はもっと広い世界を見ることだ。母国ではないものを自分の目で見たい、文化も言語も違う人と会いたい、母国で学べない知識を勉強したい、様々なことを体験したい。そうすれば自分がどんな人になるかを見つけられると思う。
 私が子供の頃、受けた教育制度は将来のことをすべて決めるものだ。どんな科目を勉強すると大学に合格しやすいか、どんな学部を選ぶと就職しやすいかということはすべて決められた。しかし、私はそのことに対して不安な感じを持っていた。自分は本当にその学部が好きなのか、自分はどんな人になりたいか、私の夢は何だろうか。大学を受験した時毎日そのことを考えて悩んだ。だから、母が「留学してみないか」と聞いてきたとき、すぐに同意した。何かえらい考え方ではなく、何か大きな夢もなく、ただ今まで人生の計画の中にないものを一度体験したい。そうすれば世界の中で自分自身を見つけられると思う。
 しかし、留学は小説やドラマなどのストーリーと全く違うことを日本に来たばかりの私はすぐにわかった。日本語も英語もほとんどできない私は誰とも交流することができなかったので、交流したくなくなった。もちろん他のベトナムの留学生もいるので全く交流しないわけではなかったが、私はいつも一人ぼっちな感じがあった。日本に来て一週間が過ぎると一緒に暮らす女の子は泣きだした。「お母さんがなつかしい、家に帰りたい」と言いながら泣いていた。その時、私もそう考えた。しかし、まだ自分の目的を達成しないので帰ることを考えてもだめだ。そう考えて私は日本での生活を始めた。私費留学生なのでバイトをやらなければならない。私は居酒屋で日本語と日本文化を勉強した。日本語学校で勉強した日本語はバイトで応用した。そして、私は日本語をすぐ覚えた。私は日本の生活に慣れ始めたのである。
 それでも、日本語学校で2年間過ごしても大学に合格できなかった。なぜなら、大学に合格するためには日本語だけでなく,他の知識も必要だからだ。ベトナムにいる時、私の家族は私を経済学部に入れさせたがったが、私は経済に興味がなかった。私は生物に興味を持っていた。問題なのは、ベトナムで生物は重要に勉強する科目ではなかったので、大学で生物と関連がある学部を勉強したければ、最初からもう一度勉強しなければならなかったのだ。また、ベトナムの高校生物の知識と日本の高校生物は三分の二ほどが違う。そこで私は、自分で生物を勉強した。だが、2年間は私にとってまだ足りないと不安だったので、すぐに大学を受験せず、専門学校の大学予備コースに入った。
ただし、専門学校に入ることを家族と友達に話すと反対意見が多かった。これまで2年かかったのに、またもう一回2年を無駄にすることはいいのか。何年かけたら大学に入れるのか、と聞かれた。私の母は「専門学校を卒業して大学に入る頃にはもう何歳だと思う?あなたの人生と他の人を比べるにはもう遅いのよ。そんな年で大学に入っても勉強できるの?早めに大学に入りなさい」と言われた。だが、私は自分の能力かどのぐらいなのかはわかっていたので今、大学を受験すればいい大学に入れない、また学びたい学部に入れないと答えた。私の友達にも「そんな年で大学に入ったら、もうおばあさんだ。恥ずかしくないか。どんな大学でもいいじゃない。大学の卒業証明書があれば就職できるよ」と言われた。しかし、私はここまで頑張ってきたので日本のいい大学に入りたいと思った。自分で決めたことは変えるつもりがなかったが、自分と関係がある人達はみんな反対したので、大きなストレスになった。
 その結果、私はやる気がなくなった。あきらめたいという考え方が出てきて、自分の決定を間違ったと思った。もっと悪いことは、私と一緒に勉強していた留学生で大学に入る目的がなくなった人がどんどん増えたことであった。国に帰った人もいるし、専門学校に入ってそこから就職した人もいるし、また大学に入っても自分が希望した学部ではなく合格しやすい学部に入った人もいる。そのことを見ると私は不安になった。もし私も結局日本の大学に入れないなら、国に帰って何をやるのだろう。外国に行ってそんなに時間がかかったことは意味がないかもしれない。いや、どう考えても絶対に大学に合格すべきだ。「これはラストの機会だ。もし、合格したら自分の人生は変わるはずだ。頑強らなきゃ」と考え、私は自分にモチベーションを加えて試験を受けた。結果、私は信州大学の農学部の生命機能科学コースに合格した。4年間かけて、いい大学、好きな学部、学科に入れた。私の新しい人生はここから始まる。
 今の私は、日本に来たばっかりの女の子より頑強で自信を持っている。4年間の悩みとストレスで得た経験がある私は、もう何も怖くない。まだ一年生なので行かなければならない道がまだ長くて障害物も多いが、どんなことがあっても乗り越える自信がある。4年間、日本で一人ぼっちで過ごした私は、母国にいたらどんな人になったか分からないが、ベトナムでは今の経験ができなかったことだけは分かる。私は頭が良い人ではないが,決心があれば自分が望むことを達成できると学んだ。また、どんな決定でも正しいか正しくないか見分けることはできない。ただし、その決定をどうするかは、決心が十分にあるかどうかが大切だと思う。留学しないと自分の人生がどうなるか分からないが、今の私はきっともっと前に行け、自分が望む人生を達成できるだろう。将来、私は大学院に入り、日本以外の国で留学することや就職することなどを考えている。年齢に関係なく、経済問題を心配することなく、やりたいことをやれると私は信じている。

30周年記念会長賞
KIM SUNHWA(キムソンファ)
人生の豊かさとは自分が変えられるもの
信州大学理学部理学科生物学コース3年生
韓国

 「幸せな人生だった」「人生の豊かさとは?」という質問を何回も繰り返した結果、死ぬ直前に、すなわち人生の終わりごろ「幸せな人生だった」と言えるのであれば豊かな人生を過ごしてきたといえるのではないかと自分は思う。では、幸せな人生を過ごすためにはどうすればいいのか。21年という時間は大人からみると短い時間であるのかもしれないが、私には幸せになる方法をみつけるのに十分な時間であった。その方法は簡単でもあり、難しくもある。「感謝」、それが、私が見つけた方法である。全てのことに感謝すれば、人生が幸せになり、豊かな人生が過ごせるのである。それを見つけ、それによって私の人生が変わった過程を説明する。
「貧乏」。それは私から離れない単語である。高校生の時、私はクラスで唯一塾に通っていない人だった。自分の部屋やベッドは私の家族にとっては贅沢な代物だった。学校での成績も普通より少し高めではあったものの、私より成績が高い人を見ると、有名でお金のかかる塾に通っていた人ばかりだった。私はいつも貧乏な両親を恨んでいた。そのとき、国から援助を受けている家庭の小学生に数学を教えるボランティア活動をした。私が教えた女の子は私の家より貧しく、母子家庭だった。幼稚園のころから英語や数学の塾に通ってきた友達と比べるとその子は単純な計算すらできない状態だった。しかし、その子はいつも笑顔で、すべてのことに感謝していた。「私にママがいてよかった」「先生に会ってよかった」「学校に通えてよかった」「文字が読めてよかった」「健康でよかった」などの小さな子供が言っていたその言葉は自分を見直させた。私はいつも自分が持っていないものばかり見て、持っているものに気づかなかった。両親がいること、住める家があること、友達がいること、健康であることなど考えてみれば感謝することばかりだった。その子のおかげで私は重要なことに気づいたのであった。
 感謝することによって私の人生は変わった。その例をいくつか紹介する。小学生のとき、私は普通の女の子より体重が重く、背は低かった。いつも友達に「ブス」や「ブタ」などと呼ばれた。いつもテレビでは細く、背も高く、きれいな芸能人が出ていた。学校でも細い女の子が人気で、それに比べものもならない自分が嫌いであった。そのせいで私には外見コンプレックスができ、人と関わるのをできるだけ避けてきた。しかし、「感謝すると何か変わるのか」という疑問を持ちながら、感謝するものを探してみた。「目が二つであって見えること」、「足が二つあって一人で動けること」、「指が両手五つずつあってピアノが弾けること」など数えられないほど感謝することがあった。「別にきれいじゃなくてもいいや。私は他に感謝することがいっぱいあるから」と思うようになった。しかし、その考え方も間違っていたことに気付く事件があった。私は高校に入り、そこには外国人の英語の先生がいた。最初の授業のとき、その先生は私を見て「笑顔がとてもきれいですね」と言ってくれた。その一言で私は気づいてしまった。「私はきれいだった。そのきれいさが世間の基準とずれているだけだ」。その後からは今まで気づいてなかった「やさしいですね」や「運動が上手ですね」などの褒め言葉が聞こえてきた。今まで私は「細い」、「かわいい」、「背が高い」という言葉だけがきれいさの定義だと思ってきた。「感謝」がなかったら私はいまだに人と関わるのを避ける人になったかもしれない。感謝することを探していたら今まで気づいてなかったことがわかり、感謝することが増えてきた。
 高校生の時代、私にはいきたい大学があったが、進学するにはいくつかの問題があった。一つ目は、学費であった。そこの受験料と入学費および授業料は私の家族にとっては結構高かった。二つ目は、英語の成績が少し足りなかった。数学と国語の成績に比べ、英語ができなかった。三つ目は、学校の位置であった。その学校は家から遠かったので、学校の近くの家を探し、一人暮らしをするしかなかった。そのためにはまたお金がかかり、家族の負担になる。その理由で私はその大学を諦めざるを得なかった。二日ほど落ち込んでいた私は、また感謝することを探し始めた。「ほかの大学にも進学できる成績でよかった」、「一つしかなかった私の大学選択肢が増えてよかった」など考えてみたら感謝することが多くなった。その後、日本に住んでいる叔父から日本留学を勧誘された。それで、叔父の家に住みながら、1年間日本語学校に通うことになった。そして、1年後、信州大学に合格し、理学部の学生になった。今考えてみると大学から授業料も免除または半額にしてもらい、日本語および英語も上手になり、韓国より家賃が半分くらい安い松本の家に住んでいることに気付いた。高校生の時いきたかった学校に進学できなかった問題が、今の大学ではすべて解決できたのである。辛い状況でも感謝したら克服だけではなくもっと良い状況になった。
 このように私は感謝によって人生が変わった。私はできるだけ多くの人に感謝の力を伝えたい。人生の豊かさと幸せは、他人、お金、権力、人との関わり、環境(状況)によって変わるものではない。それらを認識するのは自分の内面であるため、その内面を変えると見る目が変わり、すべてが変わる。感謝することができればどのような辛いことがあっても、大きな問題があっても乗り越えられる。それで、いつでも幸せになり、豊かな人生になれるのである。

20回記念会長賞
祖国と違う日本の風習、文化、なぜだろう?―台湾と日本の民族性の違い
蘇于求iソ ユイジェ)
松本大学交換留学生(義守大学2年) 
台湾

 私は今年の9月、台湾の義守大学から松本大学にきた交換留学生です。「日本に来るの、初めて?日本はどう?」。これは私が日本に来てから一番多く聞かれた質問です。「いいえ、いままでに何度も来ましたよ!私は日本が大好きです」これが私の答えです。実は今回の交換留学を入れれば、これで私の来日は14回目です。小さい頃からアニメや漫画、食べ物など、日本という国に対して強い興味を持っていました。家族みんなも私の影響を受けて、日本に興味を持つようになりました。それで、家族で毎年少なくとも一回来日観光しているのです。
 その中で最も台湾との違いを感じたことと言えば、やはり、礼儀と仕事に対する真面目さです。日本人は台湾人より礼儀と仕事を重視していると思います。そのことを強く感じた出来事がありました。それは初めて日本にきた北海道でのことです。その時は団体旅行で、バスに乗り、いろんな観光名所に行きました。初めて憧れの日本に来て、興奮しました。そして、そこにいる人たちは本当に、テレビと漫画のように礼儀正しく、仕事に対して真面目だったのです。運転手さんも店員さんもみんな笑顔で元気に私たちと挨拶して、その店から帰ろうとすると店員たちみんなは外に出て敬礼までしました、私たちが驚き、そして何だか心からもてなされているのを感じました。そして多くの楽しい思い出を残し、台湾に帰りました。
 台湾の空港を降りて、入国審査に進んだときです。審査官に「あなたの乗った飛行機の番号は何番ですか。」と聞かれたのですが、その時まだ中学生の私は「すみません、覚えていないです」と答えました。するとその審査官は、まさかの舌打ちをして怒ったのです。私はびっくりして、「日本の人達はなんて優しかっただろう」と実感しました。私は覚えていないと答えた後、すぐ飛行機のチケットをその審査官に渡したのですが、その審査官は相変わらず怖い顔をしていました。台湾に帰ったばかりなのにすぐ日本に戻りたいと思いました。
 また、祭りの違いでも驚きました。台湾人として自分で言うのはちょっと恥ずかしいですが、私は台湾の祭りの印象はあまり良くありません。いつも騒々しく、急に喧嘩することも多いのです。もちろん普通に楽しく、平和な祭りもありますが、私の経験では大体そんなに平和な祭りは少なかったのです。だから私は日本の祭りにずっと憧れていました。それはテレビ番組とか日本のドラマとアニメにはよく祭りのシーンが出ていたからです。そして去年の七月、私は京都の祇園祭に行きました。一生忘れられないいい経験でした。山車は驚くほど素敵でした。そして、朝から夜までみんな楽しく、でもちゃんとルールを守っています。祭りの最後までみんなは屋台のゴミをちゃんと分類しています。「もし台湾の祭りも、日本と同じように楽しんで、喧嘩も酔っぱらいもないならいいな」と思いました。
 このように日本が大好きだった私は、中学校と高校から日本語を勉強しました。台湾には普通科の高校と専門高校があります。実は私の学校は中学、高校レベルから日本語を勉強できる唯一の普通高校です。でも日本語の授業は週一回だけで、卒業までにやっと初級の前半の試験に合格できる程度です。私はこれではだめだと思って、自分で一生懸命勉強しました。そして去年、義守大学応用日本語学科に進学したのです。そこで思い切り勉強して、大学一年で交換留学の資格を取り、松本に来ることができたのです。
 やはり、住むとなると、観光と違った日本の面も見えてきました。
まず、食事の違いがあります。私は日本の食べ物が大好きです。でも、毎日外食で、すし、てんぷら、などを食べるわけにはいきません。日本に住むことになったのですから、食事はほぼ自分で料理するしかありません。すると、ハンバーグやソーセージとか台湾のものとも違いがあることに気づきました。材料があるなら作れるのですが、作れないものもいっぱいあります。
 でも、実は台湾と変わらないものがあります。それは私自身相当好きな日本のある牛丼専門店Y屋です。台湾には多くの日本料理屋さんが出店していますが、それらは台湾に来ても台湾風の日本料理屋ではありません。とくに、Y屋はちゃんと自分の特徴―百年以上研究を続けてできたタレとか、自分のこだわりで経営しているのです。私は日本にきてY屋の牛丼を食べ、台湾と同じ味に感激しました。これこそが日本の職人気質でしょう。
 また、一方で、日本ではあまり、自由がないと感じたことがありました。私はアレルギーにかかり、日本のドラッグストアで黒いマスクを買いました。翌日そのマスクをつけて学校へ行きました。そして、ある先生から「日本人はまだ黒いマスクに慣れていないから、白いほうがいいですよ」と言われました。もちろんそれは私のためだと思い、先生が私に教えくれてありがたいと思いましが、ちょっと窮屈だとも思いました。実は「その黒いマスクも日本で買ったものですけど。それに、マスクの色は別にいいだろう?台湾は豹柄のマスクをつける女の子がいっぱいいますよー」と思いました。
 数年前から、ずっと「どうして日本と台湾はこんなに多くの違いがあるのだろう」と考えていました。そして、日本で過ごしてたった二か月くらいだけですが、ちょっと分かる気がしました。それは「民族性」とでもいうことでしょうか。
 日本人はみんな、なにをしても一生懸命、真面目にしています。責任を持って、完璧になるために頑張って働き、誰かのためにもっと良い社会人になりたいと考えています。これは「職人気質+集団主義」ということでしょう。自分の技術、仕事に打ち込む、初心を忘れずに心をこめて、みんなのために前を向いて努力することこそが日本人の民族性でしょう。そして台湾は「楽天性格+個人主義」ということでしょうか。あまり形式にこだわらない、自由ということを一番大事にしています。「自分になる」つまり、個性を大事にするという考え方が、近年出てきています。これはともすると、他の人はどうでもいい、自分は自分がやりたいことを思う存分やる、祭りの喧嘩もこういうことに繋がります。
 台湾では礼儀をあまり重んじませんから、逆に誰とでも友人になれます。例え職場の先輩でも、自分よりも随分年下の子でも、そして外国人にもいつの間に友人になって、名前で呼ぶことも普通です。外国人に対して優しいことも随分あります。日本人は礼儀正しいことの反面、ちょっと窮屈でとっつきにくい面もあります。よく、日本人のステレオタイプとして真面目過ぎて友人になりにくいということがあるでしょう。
 私は日本と台湾両方が大好きだから、日本に交換留学生として来ることができて、本当に嬉しいです。この一年間日本語だけでなく、多くの日本人と交流して、勉強したいのです。そして、私の将来の目標は日本の「職人気質+集団主義」と台湾の「楽天性格+個人主義」を両方のいいところを身に付け、いつか日本人に台湾の自由さ、面白さを教え、台湾人に日本のまじめさ、素晴らしさを伝えたいと思います。

佳作
成長
カン・リン
信州大学 グローバル教育推進センター三年生
中国

 「千と千尋の神隠し」のなかに、忘れられない言葉があります。「人の人生は、自分の墓に向かって走る汽車に乗っているようだ。途中で沢山駅があるけど、ずっと最後までそばにいてくれる人がいない。だから、いてくれた人が降りる前に、いくら寂しくても、感謝の気持ちでさようならと言おう。」毎回、この言葉を見るたびに、「人生ってつらいなぁ」と感じます。「人は何のために生きているのかな?」、「意味がある人生って一体どんな人生かな?」このような問題がたくさんあり、私の頭の中をぐるぐると回り続けています。
落ち込み
 これらの問題を考え始めたのは大学に入ったばかりのころでした。まるで運命のいたずらのように、大学の専門は一番苦手な言語になり、高校と中学校の六年間いつも努力していた理系の知識は大学の授業で全く役に立ちませんでした。人生は想像もしていなかった道に逸れてしまったのです。一応頑張ろうと思っていましたが、なかなかに大変でした。『聖書』の中で「人は贖罪のために生まれたものである」という言葉があり、初めて見た時は少しも理解できませんでした。「好きなことをやっているし毎日楽しいのに、どうして人生は贖罪なの?」という疑問を持っていました。しかし、専門は望んだ分野ではない、部活や人間関係も挫折しか感じられない、いくら努力しても他人に認められない、万事が不如意だったあの時の私にとって、やはり人生は贖罪であると感じました。そして、自信もだんだんと失くして、運動もしたくなくなって、悪い雪玉が転んでますます大きくなりました。「中学校、高校でいつも優秀な学生だったのに、どうして大学に入ったら、落ちこぼれになっちゃったの?そもそも、優秀って一体何?」、「もし、大学生活がこういうものなら、なくてもいいよ、意味ないし」、「変わりたい、このような生活が嫌だ、このような自分が嫌だ」と考えながら、頼みの綱として日本語を一生懸命勉強していました。為せば成る、と転機を待っていました。
  出会い
 運命というのは考えてもわからないものです。
 今年の四月に中国から出発し、信州大学の交換留学生としての留学生活が始まりました。ここで、人生はもう一度ひっくり返るように変わりました。チューターの文子ちゃんとの出会いを契機に「和っしょい」というサークルに入りました。運動系のサークルなので、運動の大切さを認識し、今後の人生の中で、何があっても毎日の運動は必ず続けていくということを決めました。そして、人生がひっくり返るほどの出会いはベトナムの予備生たちです。彼らとの出会いで、人生の新しい選択肢を見つけました。今年の七人の予備生の中で、チンさんは天文が好きで信州大学の理学部に入るために、一生懸命日本留学生試験の準備をしています。彼女のおかげで、色々な事を思い出しました。2016年、中国貴州にある世界で一番大きな電波望遠鏡が完成して、そこでは天文に関する交流会と勉強会を行っています。私は担当者の先生にメールを送って参加する許可をもらいました。でも、最終的に家族に危険だと反対されました。進路を選ぶ時も同じで、家族の反対によって勉強したい専門の代わりに就職しやすい言語分野に入りました。毎回思い出すたびに、悔しい気持ちが体中に沸いてきます。彼女だけではなく、他の学生たちとの出会いでたくさんの影響を受けました。高校から文系で中国の大学に二年間通っていたけれど、天文が好きで信州大学の理学部に入学したリュウさん。夏休みのヨーロッパ旅行のために、正月も実家に戻らないでバイトをしている金光さん。医学部の四年生で今は一年間休学してチリに行っている健さん。そして、中国の大学を卒業して一年就職の後、夢のためにもう一回受験して信州大学農学部に入ったコウさん。彼らとの出会いのおかげで、もう一度自分の道を選ぶ勇気が出て、11月の日本留学試験を受けることにしました。人生は誰かが決めるものではなく、やはり自分の手で握るものなのです。やりたいことがあるのなら、一生懸命やればいいじゃない!
チャレンジ
 七月に試験の申し込みを完了しましたが、試験の準備が始まったとたん、これがどれほど大変なことなのかを認識しました。独学なので、試験に関する情報や、学習の範囲、受験用の指導書などを自分で探さなければいけません。そして、中国の高校と範囲も違うので、ゼロから勉強する知識もいっぱいあり、また、言葉も違うので専用の名詞なども覚えなければいけませんでした。むしろ、ゼロから全部の知識をもう一回日本語で勉強する状況になりました。準備する時間は5ヵ月だけで、とても余裕がありません。でも、二年ぶりに日本語で理科の知識に再会するなんて思いもしませんでした。嬉しいです。運命のしわざでしょうか。準備の最初は大変でしたが、数学や物理の基礎知識を全部復習したら、ますます達成感があり、勉強すればするほど楽しくなりました。「人は好きなことをやる時に達成感が出る」または、「達成感が出ることは好きなことになる」どちらでしょう。私は決して頭がいい人ではないので、今後理系の勉強を続けても社会に貢献するほど偉い研究者になる可能性は低いです。では、どうして理系をもう一回選んだの?難しい問題に出会って解けた時の達成感と喜びが好きなのかもしれません。この道の果てには何があるのかな?それは私にもわかりません。ただ、後悔したくなかったのでやりたい事をやってしまいました。これは私の人生にとってきっと意味がある事だと感じています。
捨てられる物
 試験の申し込みの前、「この選択のためにあなたは何かを捨てられるの?」と友人に聞かれました。その時は、あまり気にしていませんでした。今考えると、この選択のために普通の交換留学生ならできたことを諦めました。夏休みの旅行、部活、帰国はもとより、中国での学業もやめることにするつもりです。家族と友達に相談したら、「中国の大学をやめないでください。もし、日本の大学に受かることができなかったらどうするの」、「今、大学三年生になったでしょう。後二年間で卒業するのに、どうして諦めるの?」、「わがまま言わないで。国に帰って大学を卒業したらいい仕事も探せるのだから、こんなにお金もかかって、時間もかかることをやらなくてもいいよ」と言われました。このような考えはもちろん間違いではないと思います。ただ私は今までの道が自分がほしいと思ったものではないことをはっきりと分かっています。選ばないと、得ることもできないでしょう?二兎を追うものは一兎も得られないのです。
最後
「人は何のために生きているのか。」夢?家族?お金?それはきっと人によって違うし、年齢によって違います。
 意味がある人生とは一体どんな人生ですか。意味があるかどうかは誰かに決められるものではなく、自分で判断するものです。ただ、人は決して自分だけのために生きているものではないので、できるだけ家族に、友達に、社会にいいものをもたらすべきです。
 留学をきっかけに新しい生活が始まって、面白くて優秀な人たちに出会って、自分を再度見直して、新しい可能性を見つけました。色々な人の手助けて、諦めていたことをもう一回始め、やりたい事を改めて明確にできた一年未満の留学生活は、今までの人生の中で一番贅沢な時間でした。

佳作
留学によって切り開く私の人生
諸葛 賢
信州大学交換留学
韓国

 私の母国の韓国では知らない人がほとんどいないくらいとても有名なことわざがある。そのことわざは「井戸の中の蛙」だ。このことわざは深い井戸の中で育てられた蛙は当然、井戸の中が全ての世界だと思い、外の世界は全く分からないという意味である。私は日本に留学をする前まではこのことわざのように、韓国以外の国については全く分からなく、まるで井戸の中の蛙のような日々を過ごしていた。
 幼い頃、私の父が運営していた会社が倒産し、学歴社会である韓国で勉強が続けられる家庭状況ではなかったため、中学生の時に勉強をやめざるを得なかった。そのまま、勉強ができなくても、経済的に厳しい状況であっても、高校までは進学ができる韓国の教育制度のおかげで高校の入学はできたものの、家の経済状況はなかなか良くならなかった。そのため、大学の進学どころか夢も持てず、高校3年間はいつもアルバイトをする日々が続いた。その後、高校を卒業した時点で、私がお金を稼がなくてもいいくらい、家庭状況はだいぶ良くなった。しかし、今まで勉強と離れていた日々を過ごしていたので大学の進学は想像さえしたことがなかった。高校を卒業してから私にできることは、韓国籍の男性なら義務である軍隊に入ることしかなかった。約2年間の軍隊での生活は暇つぶしをするように過ごして、後の計画も立てず、除隊をした。
 今まで生きていくために一生懸命アルバイトをし、自分にとっては夢を持つことさえ、贅沢だと思っていたので、中々やりたいことも、やる気も起きなかった。しかし、偶然に除隊の祝いとして行った日本の旅行が、私の人生を大きく変化させるターニングポイントとなった。今まで全く日本に興味を持っていなかった私は、ただ、兵役が終わったという嬉しい気持ちと初めての海外旅行だったので、それだけが楽しみだったが、色々な所に書いてある平仮名と漢字、可愛らしく聞こえてくる日本語、母国の韓国から一番近い国なのにも関わらず、ものすごく違う町の風景、人々の服装で、私は興奮し始めた。
 その後、韓国に戻ってきて、日本に留学をして、日本についてもっと知りたいと思い、日本語の勉強を始めました。そして、留学にかかる費用のためにアルバイトをして貯金することにした。今までちゃんと勉強したこともない私は「自分が好きなことを勉強することってこんなに楽しいんだ」と思い、目標も持たず、お金ばかり稼いでいた時とは全く違って、アルバイトで疲れていても楽しく勉強ができ、生きがいのある生活が送れた。
 そして、私はようやく日本に着いて、初めて勉強のために自分のお金で日本語学校に入学し、誰よりも一生懸命勉強をしたり、今まで会ったことのない外国人と友達になったり、各国の様々な文化を自ら感じて理解することができた。よく自分の国について話したりしたが、ある日、私が今まで考えたこともないことを外国人の友達に質問されてショックを受けた。それは皆が何日ごとに髪の毛を洗っているのかという質問だった。この質問は一般的に考えて自分が髪の毛を洗う回数が自分にとっては常識的だと思っていることが、相手にとっては違う場合もある。何故かと言うと、私は髪の毛を毎日二回洗っているからだ。ところが、その質問に対するみんなの答えは一日に一回、二日に一回など様々だった。そこで私は正直、この子達が汚いと思い、微妙な表情で「私は朝起きて一回、家に帰ってきて一回で、毎日二回洗ってるよ」と答えた。すると、友達は「毎日二回も洗うと頭皮に悪いよ」と言った。よく考えてみれば「確かに頭皮に悪いかもしれない、逆にこの子達は私のことを潔癖症だと思うかもしれない」と思い、自分の基準が他の人と同じ基準であろうという勝手な判断をしたことに対し、とても反省した。
 それから、私は勉強した日本語を使うために、生活費を稼ぐためでもあり、温泉や飲食店など、様々な所でアルバイトを経験した。そのアルバイト先では短い間勉強してきた日本語とは違う文法や発音、実際に使われている日本語はとても難しいと感じながらも、日本語だからこそ存在する敬語や尊敬語、謙遜語などに魅力を感じ、日本式の接客を習いながら接客業に興味を持ち始めた。その後、お客様に対して、心を込める従業員の心構えは断然世界一だと思い、日本で接客業に勤めたいという夢を持った。
 とはいうものの、幅の広い接客業の中で具体的にどんな仕事をすれば良いのか中々決められなく、また、まだ社会人としてしっかり仕事ができるほどの知識がないと思ったので、将来にやりたい仕事ができるように勉強しておこうという考えで大学の入学を決めた。しかし、日本の大学に入学ができるとしても、自分一人で学費や生活費を稼ぎながらでは学業に専念できないと判断し、学費が安く奨学金制度の多い韓国の国立大学の入学を目指した。そして、一年間半の日本留学を終えて韓国に帰国し、一年間の受験勉強を頑張ってようやく希望していた国立大学の人文学部、日本学科に入学することができた。
 しかし、入学してからも平坦な生活は送れなかった。その理由は、生活のために、アルバイトをせざるを得なく、学費の全額奨学金のために学科内で成績が三位以内には入らなければいけなかったため、一生懸命勉強も頑張るしかなかったのである。それでも、日本で留学した経験があったので、他の学生たちよりは日本語ができ、自分の好きな日本に関わる学問の勉強だったので、成績もよく、三年生までの学費は全額免除された。それに、高校時代のアルバイトや日本でのアルバイト経験で体力には自信があったので、学業とアルバイトの両立がそれほど辛くなかった。
 また、学校に外国人の学生が多いため、外国人の留学生をサポートするチューター制度があったので、そのプログラムに参加し、留学した経験を生かして留学生の韓国語の勉強を手伝ったり、生活のサポートをしたりするなど、他国で頑張っている留学生に少しでも力になれるように努力した。そして、学校の同じ学部の同級生や後輩に大学で学ぶ日本語と実際に日本社会で使われている日本語がどれほど違うか、それ以外にも留学で得られるものや考え方の違い、偏見などを伝えながら日本の留学を積極的に勧めた。
 そのうち、私は日本での留学経験とチュータープログラムを通して、外国人と接することで楽しさを感じることができ、接客業で色々な国の人と触れ合えるような仕事がしたいと思い、航空会社の客室乗務員を目指すことにした。その目標達成の第一歩として日本語だけでなく英語の勉強も始め、大学の最後である四年生の時にもう一度、日本に交換留学を通して、色々なことを学びながら、同時に日本での就職活動も行うことにして、現在、日本に来ている。
 上記に述べたように、今まで井戸の中の蛙だった私は、たった一年間半の留学を通して、考え方や心構えが大きく変化され、やりたいことややる気も起き、積極的に振舞えるようになった。大げさだと思われるかもしれないが、留学を通して自分の国とは違う色々なことを見て、聞いて、感じることは何よりも大事だと自信をもって言える。また、今私たちが住んでいるグローバル社会では井戸の中から出てもっと広い世界に足を伸ばす必要がある。そして、考え方を変えて偏見をなくし視野を広げていったら、今よりもっと成長していくであろう。

佳作
私の祖国―みんなの知らない香港
梁子謙(リョウシケン)
松本大学交換留学生
中国・香港

 日本人のみなさんは香港に対してどんなイメージを持っているのでしょうか。「豪華中華料理が食べられるところ!」「夜景のきれいな大都会!」「英語も中国語も上手な人のいるところ!」。実は私は香港出身で、台湾の義守大学に在学している学生です。この9月から松本大学で交換留学生として勉強しています。そういうと、皆さんは私が「英語、中国語、日本語も上手なんてすごい!」と思うのではないでしょうか。たぶん、こういう皆さんのイメージは香港が昔イギリスの植民地であり、1997年に中国に返還されたという歴史からくると思います。
 確かにかつてイギリスの植民地でしたから、香港には西洋の影響もあります。GDPもかなり高いです。国際的都市ですから、高いビルと人が多いです。豪華中華料理は確かに食べられます。そして、英語の上手な人も多いです。しかし、それは香港の一部でしかありません。そこで、ここではあまり知られていない香港を皆さんにお伝えしたいと思います。
 私が両親と住んでいた町は都心から離れた場所で、「コンクリートの森」と言われる都心とはまるで違います。緑の森に囲まれ、虫はもちろん、猿だっています。実は香港は平地より山のほうが多いです。香港人は小学校、中学校、高校のサマーキャンプの時、山のキャンプ場に行って、みんなでバーベキューをするのがお決まりです。香港の陸の面積は
 1100?くらいで、その中で、山は60%、すなわち650?くらいを占めています。450?の平地を住宅地にした土地はほんの一部、たったの75?にすぎません。残りは商業、工業、インフラストラクチャーなどになっています。家の大きさの中央値は35平方メートルくらいです。住宅用地の人口密度は東京のなんと4倍以上なのです。
 つまり、香港では平地ではなく、山の中に住んでいる人もいるのです。香港の山の中にある住宅は三階建で、古い家が多いです。そこに住んでいる私の友人は、いつも文句を言っています。山の中ですから、インターネット通信が遅いのは仕方ないとして、給湯器のガス缶を変える時も、自分でしなければなりません。一番大変なのはやっぱり交通です。市場か最寄りのコンビニに行くときでも、バスで15分もかかります。彼はよく「近くにコンビニが建ってくれないかな」とこぼします。
 実はこの私も小学校以外、すべて山の中の幼稚園、中学校と高校に通いました。私は大学は香港から出て、台湾にある義守大学に進学しましたが、そこも山の中でした。そして、現在,交換留学生として勉強している松本大学も山に近い大学でした。どうもシティーボーイのイメージの私は山と縁があるようです。中学校と高校は同じ学校で、バスに乗れば15分くらいで着きました。でもバスは一時間に一本しかありません。日本の皆さんには想像できないかもしれないですが、香港の交通は時間通りではありません。一応時刻表はありますが、それはただの目安にすぎません。ですから、私は通学の時、父に車で送ってもらうか、自分で歩くしかありませんでした。夏期補習の時は最悪です。父の通勤時間と違いますから、毎日40分以上歩かないといけませんでした。みなさんは考えもしなかったでしょう。国際的な大都会である香港で、歩いて40分もかかって通学するところがあるなんて。
 次に英語について話します。よく香港の人は「頭がいい」とか「英語が上手」とかをイメージする人が多いらしいですが、頭はともかく、「英語がうまい」というのは紛れもない誤解です。先ず知ってもらいたいことがあります。香港は中学から二つのタイプの学校に分けられています。一つは主に共通語、つまり広東語で授業する学校、そこでは歴史とか化学とか、英語以外は全部広東語で教えられます。そういう中学は中国語(広東語)中学、略して中中と呼ばれます。もう一つは、国語以外の授業が全部英語のタイプ、英語中学の英中と呼ばれます。決め方はこうです。まず、志願者が希望の中学校を通っている小学校に提出します。中学校側は志願者の小学校、小学校の成績、そして面接の結果で決めます。香港では、大学に入ったら、授業は全部英語ですので、英中に通っていた生徒のほうが断然授業を理解しやすいことになります。世界で最も使われる言語、英語ができて香港の大学に入ることができれば、将来が約束されるのです。ですから、子どもの将来のために、今の親は中学の時はもちろん、小学校から子どもを塾に通わせます。お金に余裕がある人は家庭教師を雇います。つまり、家にお金があればあるほど、子どもが成功しやすいというわけです。日本でも東京大学の学生の親の年収が最も高いということを聞いたことがあります。それと同じことです。私は、小学生の子供に、毎日宿題を7つ以上も出し、その上塾に通わせ、プレッシャーをかけることは正しいかどうかは疑問を持ちますが。
 ここで皆さん、お分かりでしょう。英語がうまい香港人のほとんどが英中出身者であるということが。みなさんは、なぜ私が香港からわざわざ同じ中国語圏の台湾の大学を選んだのか、疑問だったと思います。実は今香港の大学に入れるのは受験生の三分の一です。私は中中出身で、香港の大学には入れませんでした。では、英語ができないと将来性はないということなのでしょうか。いいえ、違います。香港は今、外国で勉強をすることを一つの選択肢とみなす人が多く、欧米はもちろん、近年は台湾に留学する学生が増えてきました。一番大きい理由は経済的なことです。学費と生活費が香港よりずっと安いです。さらに選べる学科が多いです。たしかに香港の大学は世界ランキングが高い大学が多いですが、台湾の大学には香港であまり見かけない学科があります。それに台湾は使う言葉は少し違いますが、文字は香港とほぼ一緒ですから、授業内容が基本的に分かりやすいからです。考え方が小さい香港を出て、外国で生活、勉強することによって、自分の世界を広げ、他のところの考えもわかり、将来的にも役に立つと思います。私は台湾に来て、英語以外の言語、日本語を選択し、3年間勉強しました。日本語能力試験一級にも合格しました。松本大学に交換留学することもできました。私はみなさんのイメージのような香港人のように英語がうまくないかもしれせんが、日本語で自分の将来を開こうと考えています。
 他にも香港はみなさんのイメージと違うことがたくさんあります。私もここ、長野県松本市に来てから、今までのイメージと違う日本をたくさん発見しました。例えば、ずっと朝の電車は人がいっぱいだと思っていましたが、松本は違いました。食べ物は思ったより安かったけれど、電車賃の高さは本当に半端ではないこと。松本の人は日本人―東京人のとっつきにくいイメージと違って、とても親しみやすかったこと。このようにイメージは全部正しいわけではありません。実際に行って、実際の目で見なければ、真実かどうかは分からないのです。どうぞ、実際に香港に来て、その目で香港を見て、感じてください。

佳作
「私の日本留学生活―日本で学んだこと」
ヨンジャン サムザナ
丸の内ビジネス専門学校ビジネス科
ネパール

 子供のころから、私の両親はよく「人生はつねに新しいことにチャレンジして頑張ること」と私に教えていました。私はそのことを胸にきざんできました。そして日本人は一番頑張る人、日本は戦争で国がどんな大変なことになっても、頑張ればできないことはない、と発展してきたイメージがあります。
 3年前ネパールで大きい地震があった時、私の弟の日本人のともだちは、困っている人を助けるために日本から来てくれました。その人たちと一緒に、私もいろいろボランティア活動を行いました。その時、日本人の努力、そして頑張る姿を見て日本に興味を持ち、日本に留学しました。
 ネパールの田舎では、ほとんどの女の子、特に結婚している女の人は、学校へ行くことができません、なぜかというと、結婚したら自分の家族の料理を作ったり家の掃除をしたり子供の世話をするからです。でも私は結婚していて6歳の子供もいるのに日本に留学することができました。家族は私の代わりに私のしごとをしてくれて、ありがたい気持ちでいっぱいです。
 日本に来てからも弟と一緒に長野でNAGANO IYEOというプロジェクトに参加し、メンバーとしていろいろボランティアをやっています。例えばイベントの時ネパールの料理をつくったりネパールの文化や食べ物を紹介したりしています。そのイベントであつまったお金で、3年前の地震で多くの人が亡くなった所に学校の建物を作っています。
 日本に留学し、生活するようになってもう2年になります。大変なこともありましたが、いろいろないい経験もしました。たとえば電車から降りるときや乗るとき、人が多くても並んでいます。他の人のことをよく考えてマナーやルールを守り、それを大切にしていることはすばらしいと思います。どこへ行っても、誰でも、スーパーやコンビニ、それに切符などを買う時もまじめに並ぶことに私はびっくりしました。もし私の国だったらけんかするかもしれません。
 日本に来る前に、日本はとても忙しい国で、日本人はとてもがんばる人たちだと思っていました。そして私のその予想は当たっていました。日本に来て初めて経験することもいろいろありました。日本に来る前に一か月ぐらい日本語を勉強しましたが、あいさつも上手にできませんでした。でも今は日本で一人で生活しています。どこかへ行って道がわからなかった時や困った時は、誰に聞いても手伝ってくれるから、日本語を読めなくてもどこにでも行けます。
 こんなできごとがありました。去年日本に来たばかりで初めてアルバイトに行った日のことです。行く時は日本に留学してもう7年になった弟と一緒でしたが、帰る時は自分ひとりで帰れるから迎えに来なくてもいいと、私は弟に言いました。でも実際帰る時、もう夜になっていて外が暗くなって、私は途中で道を間違えてしまいました。私の国では、夜、女の人が一人で出かけると危ないですから、日本もそうだと思ってとてもどきどきしました。私は歩いている人に道を聞いてそのとおりに行ってみましたが、もっとわからなくなってしまいました。私はその時もう一度誰かに会ったら道を聞きたいと思っていましたが、弟にも電話をしました。弟は「心配しないで、すぐ迎えに行きますよ」と言いました。私は弟を待っていようと思いましたが、女の人が歩いていたので、どきどきしながら道を聞くと、その女の人は私に道を教えてくれました。でも私は日本語がよくわかりません。すると、女の人は私を連れて一緒に行ってくれました。私はその人もちょうど同じ道を行くのだと思いましたが、弟が来て「もう大丈夫です。ありがとうございました」と言ったら、その女の人は前の道を戻って行きました。このようなやさしい日本人を見て、私はとてもうれしかったし、とてもありがたい気持ちになりました。
 日本人は細かいことや仕事については厳しいけれど、人を助けることや他の人のことをよく考えたり、ルールを守ることは、とてもすばらしいです。世界で日本のサービスがとてもいいということは日本へ来る前も聞いていましたが、今はそれだけではなく、ほかの人を助けることや、ほかの人のことを大切にすることは、本当にすばらしいことだと思うし、ありがたい気持ちでいっぱいです。
 将来国へ帰った時、自分の子供やみんなに、このような日本のすばらしさや自分で学んだことを伝えたいです。それで自分でもできるだけルールを守ったり、困っている人を助けたりしたいと思います。みなさんもこの一回だけの人生に、できるだけいいことをして、自分のためだけではなく他の人のためになることも考えてみましょう!

佳作
日本と比較したスリランカの環境問題について
G. W. A. THARSHANA U. タルシャナ
丸の内ビジネス専門学校ビジネス科
スリランカ

 みなさん、こんにちは。私はタルシャナと申します。スリランカから参りました。
 みなさんの中には、たばこを吸う人がいらっしゃると思いますが、たばこの吸殻をどうしますか? 決められたところに捨てますか? それとも、そのままポイ捨てするでしょうか。
 日本では決められたところに捨てることになっていますが、外国出身のみなさんは、自分の国でも同じでしょうか。
 水を飲んだあとのペットボトルはどうしていますか? ジュースの入っていたボトルは洗ってから捨てますか? そのまま出しますか?
 私の母国スリランカでは、昨年の4月にゴミが原因で大きな事故があり、多くの人が亡くなりました。高く積み上げられたゴミの山が崩れ、近くの家が100軒以上壊れたり、人が生き埋めになったりしたのです。この事件を知って、スリランカ全国の人は悲しみました。
 この事件のように、スリランカで今一番の問題はゴミ問題です。ゴミが原因の環境問題も起こっています。
 みなさんは日本のゴミの分別について、どんな意見を持っていますか? ゴミを「罪」と思っている私の国に対して、ゴミを「金みたい」という意見を持っている人もいる日本はすごいと思います。
 私は来日したばかりのころ、ゴミを分別することをほんとうにめんどくさいと思っていました。「燃えるゴミ」とか「燃えないゴミ」とか分けるなんて意味がないと思い、分けずに全部まとめて捨ててもいいのではないか、と考えたことがありました。皆さんはそんな経験はないでしょうか。
 ある日、ゴミをまとめて袋に入れ、名前も書かないで捨てようとしたところ、ちょうどその時に来た日本人に怒られました。「名前を書いて出して!」と言われたので、一回もどって名前を書いてまた持っていったら、さっきの人がそこで待っていました。ちょっとこわかったので、ゆっくり歩いてゴミ捨て場まで行ったら、「ちゃんと分別して!」と、また怒られました。日本人って、細かいことにきびしいな、と思いながらアパートにもどって分別してから捨てました。なぜ日本人はこんなめんどくさいことをやっているの?と思いました。その時間が無駄だと思ったこともありました。ですが、その理由を学校で教わったら理解できました。理由がわかったら、自分の考えが恥ずかしくなりました。
 日本では、ゴミをリサイクルして使うために分別する、と聞きました。新聞紙などの古い紙からトイレットペーパー、ペットボトルからシャツ、など、ゴミとして捨てられるものを原料にいろいろなものを作る技術はすごいと思います。リサイクルして作られたものは、安く買うこともできます。また、捨てる分が少なくなるから環境にもやさしいです。
 日本人の生活を見ると、環境をだいじに生活していると思います。街ではいろいろなところにゴミ箱があります。道でゴミを捨てる人はほとんどいないです。川にゴミを捨てる人も見たことがありません。川岸も、まわりに住んでいる人々がみんなで草を取ったり花を育てたりして、きれいにしています。のら犬もほとんど見たことがありませんし、飼っている犬と散歩をするときは手さげ袋を持っていって犬のフンを持ち帰るなど、環境を守るためにいろいろなことが行われています。
 ゴミをきちんと分別して捨てることにより、いろいろな利益が生まれます。道や川にゴミを捨てなければ町もきれいです。山や川がきれいなら、水もきれいになります。きれいな水で育てた野菜や米を食べれば、健康にもよいと思います。みんなが自分でやれることをやれば、ゴミ処理などにかかるお金が余りますから、それをほかのことに使えるのではないでしょうか。
 残念ですが、私の国は日本とぜんぜん違います。ゴミの分別も多くの人がやっていないし、リサイクルの技術も高くないです。それで、スリランカでは昨年あのような悲しい事故が起きてしまったのです。その日は大雨でした。自分の家族のために働きに行ったお父さんが仕事を終えてうちに帰ったとき、信じられない光景が目の前に現れました。大雨によってゴミの山が崩れ、自分の家だけでなく、中にいた家族も流されたり生き埋めになってしまったのです。
 みなさん、そのときのお父さんの気持ちを考えてみてください。大人のやっていることのせいで、何もわからない赤ちゃんたちが死んでしまったのではないでしょうか。
 みなさん、日本に留学した私たちはラッキーだと思いませんか? 日本にいる限り、ゴミを分別するとかみんなで集まって環境を守るための活動をするとか、いい習慣が身につくのではないでしょうか。今後自分の国に戻っても、この習慣を基に生活すれば、いつか自分の子どもたちにも教えることができます。そして将来、環境問題を通して地域を守り、国を守ることができます。
 ゴミの問題や環境破壊によって、私の国で起きたような悲しいことがどこかで起きないように、私たちひとりひとりが小さな努力をしていくことが大切だと思います。まずは自分の暮らす地域を守るため、そして自分の国を守るため、自分の力でできることを始めてみましょう。

審査員特別賞
祖国と違う日本の風習、文化、なぜだろう?心の文化
薛岩(セツガン) 
信州大学グローバル推進センター
中国

 小さい頃から日本のアニメ好きの私は日本への留学生活に興味津々でした。しかし、来てからは、日本文化であろうと、日本の風習であろうと、見ず知らずのものみたいだと感じます。日本の名物というと、まずお茶や生花とか、歌舞伎などがよくあげられたりします。一方、現代のコンピュータやロボットもよく知られています。この二つの全く異なる性質のものによって代表された日本は、考えれば考えるほど、矛盾しているのではないかと思います。とにかく、外国人にとって、たいへん理解しにくいものです。
 最初に新しい環境に置かれている私は言語にとても敏感でした。日本人が何気なく使う言葉は、私にはずいぶん奇異に感じました。例えば、ある日、道で思いがけなく知人に逢いました。その人は、「どちらへいらっしゃいますか」と私にたずねましたが、「おれがどこへ行こうと勝手ではないか、おれの私生活に入ってくるな」と私は、言いたかったです。じっくり考えると、実はその人がそういう質問をするのは、「この人に今日、思いがけないところで逢った。この人に何か変わったことでも起こったのではないか。そうならば一緒に心配してあげよう」というやさしい気持ちからだそうです。一方で、中国人はよく「ご飯食べましたか」とあいさつします。相手に関心を持っているようにみえますが、いいかげんにあしらうやり方ではないかと思います。日本人は、知り合い同士は、お互いに、相手のことを心配しあおうという気持ちをもって生活しているのです。
 なお、バスに乗っていたところ、あるおばあさんが乗ってきました。それを見た途端に、座っていた私が立って席を譲りました。その時におばあさんは意外に「すみません」とあやまる言葉を言いました。日本人は感謝の言葉をのべる代わりにあやまる言葉を述べるのですか?
 たぶんおばさんの気待ちはこうなのです。「私が乗ってこなければ、あなたはいつまでもそこに座っていられたでしょう。私が乗ってきたばかりにあなたがお立ちになることで、あなたにご迷惑をおかけする。これは申し訳ありません」という気持ちの表明です。そういうことから、「すみません」は謝罪だけの挨拶ではない。感謝も、恥ずかしい時も、気にしなくていいという時も用いるオールマイティな挨拶です。日本人は相手の立場から自分の行動を省み、他人の犠牲を感謝する精神はほんとうにありがたいと感じます。
 日本に来てから、学校にも、商店にも、一生懸命に働く姿はよく見られます。どんな思想が日本人の行動を左右しているのでしょうか?中国の古人が万里の長城を建てたり、魯班精神を継承したり、中国にも「よく働く」という美徳がありますが、どうも日本のとやや違います。その原因は一般的な「恥」と「誇り」の思想ばかりではなく、「苦あれば楽あり」という言葉があるように、いま苦労しておけば将来きっといいことがあるという将来に期待をかける気持ちがあって、今を一生懸命に働いているのではないでしょうか。
 また日本人は「帰属意識」の強い民族だということが言えます。家に対する帰属意識や村に対する帰属意識の上に、会社に入ってからはさらに「会社」に対する帰属意識が加わります。そういう古来あった日本の制度は、戦後外国のよいところを進んで取り入れて、短時間のうちに日本の産業が発展し、日本製品に対する賛美の言葉も幅広く聞かれます。実際のところ、戦後日本の団結力は中国人にとって及ばないものだと思います。
 一方で、中国は日本と違って、いろいろな民族がおり、言語の違う人もたくさんいます。シベリアからの異民族もときどき侵入し、そこでは、全体を統合してゆくことがいつまでも必要です。ですから、高度な中央集権にあって皇帝の詔こそは庶民の行動の原動力とも言えます。それに、漢族は歴史をたどれば台風、地震、津波、火山の爆発と天災に苦しめられたことが少なかったし、そうした時に力を合わせて復興しようという心理も養っていなかったと思います。養ってきたのは儒家の「修身、斉家、治国、平天下」です。紀元前の中国に興り、東アジア各国で二千年以上にわたって強い影響力を持つ儒教ですが、日本で独自性が生まれました。
 日本の場合、一番強い影響を受けたのは、中国文明です。たくさんのものを日本は受け取りました。漢字や律令制に伴って、儒教も入ってきました。ところが、日本人が儒教として認識しているものは、本国の中国のそれとはずいぶん違います。孝道を例として挙げてみようと思います。中日の子どもが大きくなって成年に達し、やがて年老いた両親がもはや、働けなくなったとき、両親に対する扶養はたいてい同居の形で行われます。もちろん、両親のほうも同居扶養を期待しています。元の儒教に則ると、「身体髪膚これを父母に受く」と言って親への孝は絶対的なものです。ところが、日本では、孝について儒教の影響を受けて同じような表現をしますが、日本人の考え方は、「親に孝行しなければならぬ、なぜなら、親は自分を養育し育ててくれたからだ」ということです。中国人は、親は自分の現在あるもと、悪い親であれ、育ててくれなかった親であれ、親は親、だから孝行しなければならぬという観念です。こういうふうに、日本の儒教的考え方は、本家の中国と少し違ってきています。
 いうまでもなく、それぞれの国の文化は、独自なものを持っています。その独自さはどうして作られるかというと、国の歴史が作るものです。日本はアジア大陸の東に近い島であり、太平洋の西側の島であり、小さい島の列島から成り立っています。大陸から切り離されているので他民族の侵略を受けたり、そして他民族の持っている文化が日本に入ってきたりして日本文化に大きな影響を与えるということが非常に少なかったのです。
 今日見ると、日本文化というものは非常に雑多のものが入っています。フランス、ドイツ、イタリアのもの。しかし、それが何となく日本化されてきています。日本という国の特色は、日本が一面では西洋起源の近代文明を取り入れた高度に産業の発達した国でありながら、他面では7、8世紀の中国大陸から入れた学問、芸術、文化、それが元になって、日本固有の文化を維持している国、言い換えると二重文化の国だということです。要するに、日本は世界中に、自分の選択原理があります。文明的に進んだ諸物を入れながら、そのシステムのすべてを受容するのではなく、日本側の選択によって、心の文化が生まれました。文字は中国から入れましたが、漢字の他に、平仮名を作ったり片仮名を作ったりしました。仏教も入りましたけれども、他の国の宗教の入れ方と違って、国の政治を変化しないで、日本人の生活の信条、考え方の上で、あるいは心の問題として仏教が入りました。日本の札に現れた福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石などはいずれも国が圧倒的な西洋文明の衝撃を受けたとき、世界の中の日本について思想面や教育面や文学面でいろいろ考え、さまざまな著作を表した人たちでした。これらのことも「心の文化」を証明していると考えます。
五千年も続いてきた中華文明は、グローバリゼーションとネット時代の今、新しい価値観を取り入れると同時に、どう選択すべきですか、または、どんな「心の文化」を作ろうか、考えに値する問題だと思います。

伊藤賞特別賞
人生の豊かさとは?自分はこう考える
Luc Anh Tuan(ルックアントワン)
信州大学:繊維学部機械ロボット学科修士2年生
出身国:ベトナム
 
 私はホーチミン市郊外で生まれ育った。家族は両親と上に姉がいたので4人だった。父は家族の大黒柱として木材塗装の仕事をし、また母は、少しでも家計を助けようと専業主婦の他に、バイト的な形で自宅にて中秋節のランタンを作る内職もしていた。
 私たちの家は老朽化し、人が住むには厳しい環境にあったが、私たち姉弟はそんな家で生活しなければならなかった。乾季にはトタン屋根を灼熱の太陽が照り付け、部屋は凄い暑さとなった。雨季には大雨が降り、腐った屋根の隙間から雨水が漏れてバケツを置いて防いだ。そんな厳しい住環境の中でも、私たち家族はみんなで食卓を囲みながら和気あいあいと団欒のひと時を過ごした。?
 経済的に非常に苦しかったので、他の子供と同じように幼稚園に行くことができなかった。6歳になって、幸運にも家の近くの公立小学校に入った。あっという間に小学の5年が終わった。中学受験では第一希望に落ちてしまったため、家から15km離れた中学校に入る羽目になった。毎日のように、母が当時、家族の一番大きな財産である灰色の旧式中国製バイクで私たち姉弟を送迎してくれた。ある日のこと、母が病気になったので父が学校まで私を送ってくれた。教室に入った直後から、「トゥアンのお父さんの服が汚くて埃だらけだ・・・」と友達に笑われた。腹を立てている私は直ぐに「うるせ〜〜」と言い返した。そんなことがあって、当時の私は自転車で通学したらいいなあ、友達が父の汚い服、旧式のバイクが見えなくなるからと考えた。帰宅してから、直ぐ母に「お母さん、自転車が欲しい!自分で通学したい!」と強い態度で言った。母は、私の頭をなでながら「中学校を卒業したら買ってやるよ。頑張ってね」と優しい声で答えた。
 あっという間に中学の4年が終わって、高校生になる時期がやってきた。中学校卒業後の春休みには、友人に誕生日のプレゼントを贈ってやりたいので、「お父さん、20万ドン(1000円相当)をください、友達にプレゼントを買ってやるから」と父にお願いした。元々無口な父は「おまえ、子どもじゃあるまいし。両親の苦労が分かっているのか」と怒鳴りつけられた。その言葉を聞いた私は部屋に戻って枕に顔を埋め泣きながら色々と考えた。翌日、「お父さんのところでアルバイトをしたいけど…」と両親にお願いすることにした。両親が受け入れてくれ、次の日に私は初めて塗装工場に行った。私の仕事はサンドペーパーで木の表面を仕上げるものだった。作業中に私の服に木屑塗れが付いて、時には木屑が目に飛び込むことさえあった。
 父と作業した時間では色々なことを教えられた。私は、私たち姉弟のため、家族のため、父がどのように苦労していたかが今まで全く分かっていなかった。ここまで幼稚な行動や考え方を取ったことを恥じた。工場で木材の箪笥を運んでいる父の細く薄い体を見て、涙を流さずにはいられなかった。そして、母はニスの匂いで息が詰まるから父が眠られない日もあると打ち明けてくれた。家族のバイクのせい、また、父のニス塗れ服のせいで肩身の狭い思いをしたことがあったが、両親の苦労を一度も分かったことがなかった。父の仕事を誇りに思っているし、父がエアーガンを持っている姿はかっこいいと思う。そういうことを父に一度も言ったことがない。
 塗装工場でアルバイトをした時間は私の人生に大きな変化をもたらした。学問こそが貧困から抜け出す唯一の道だと、15歳の時初めて気づいたのだ。そこで、理系で一流大学に合格し、そして日本留学、日本で働く優秀な技術者になる夢としての人生の計画を立て始めた。
 あっという間に高校の3年が終わる中で、頑張った甲斐があってホーチミン市工科大学に合格し、機械ロボット学を専攻した。大学2年生からは夜、日本語センターに通い始めた。チラシ配布、ウェーターや家庭教師などアルバイトをすることで、なんとか日本語学費を賄うことができた。3年生から、日本人学生との交流や就職フェア、日本留学セミナーに参加し始めた。すると、ここでも幸運に恵まれ、日本留学試験の合格通知が届いた。やっと日本留学という夢が現実になった。そして、卒論も順調に進んでいて、卒業式も来た。大学卒業式での両親の幸せな笑顔を忘れられない。学部長から卒業証書を受け取るため演壇に向かう途中で、頬に付いた涙をそっとぬぐっている母、にっこり笑っている無口な父を見て、私たち姉弟を23年にわたって育ててくれた両親に対して少し親孝行ができたかなと感じて嬉しかった。大学卒業式から5日後に渡日した。空港で両親の嬉しさと悲しさの入り混じった笑顔を見ると、 帰る日に必ず成功者になってみせると自分の心に誓った。
 「光陰矢の如し」時間はあっという間に流れ、家族と離れてから3年が経った。家族の生活もすっかり変わった。両親は孫娘ととても充実した日々を送っている。幼い頃から住んでいた愛着ある古い家は、その後、修理されて雨漏りもなくなり、猛暑の日も涼しく過ごせるようになった。一方、私は便利な日本で暮らしているのに、いつも何か物足りないと感じている。それはふるさとの味だろうか。特にテット(ベトナムのお正月)が来るたびに、お姉さんが孫を連れて夫の実家に帰ってしまい、両親だけが残され、愛着ある家も火が消えたように寒く寂しくなる。そして、テットや故郷をテーマにした歌を聞くたびに私は笑い声に包まれていた昔の食卓を思い出し、一家団欒の温かな当時を心から懐かしく思う。
 私にとっては、人生の豊かさとは自分が持っているものを愛して大切にすることだと思う。そして、両親に感謝しつつここまで苦労を重ねて育ててくれた2人を幸せにすることだと心から思っている。父のニス塗れ手に感謝している。その皺が多くなった手は私たち姉弟を育ててくれた。また、一家を見守ってくれた古い家、旧式のバイクにも感謝している。知識と健康が一番大切なことを、身をもって教えてくれた父と母に感謝している。修士論文発表会を3ヵ月後に控えて、これからもっと一所懸命頑張っていくと私は自分に言い聞かせている。国内でも旅行したことがない両親を美しい日本に連れてきたいものだ。信州大学で両親と卒業記念写真を撮り、少しでも親孝行ができればいいと思っている。

山梨YMCA賞
留学によって切り開く私の人生
ヨウ ショウカ
松本大学交換留学生 
中国

 大学に入って日本語との付き合いが始まりました。そのときは、なぜ日本語を選んだのか分かりませんでした。2年経っても、分かりませんでした。実は私は日本語に対して微妙な感情を抱いていました。それは歴史や政治の関係で家族から勉強することを反対されたからです。私自身も、中日戦争の映画を観たり、祖父母から色々な 話を聞いたりしていましたから、もやもやした感情がありました。それでも生来真面目な私は、一生懸命勉強しました。その結果、日本語能力試験の2級にも合格し、松本大学への交換留学生にも選ばれました。私の大学、嶺南師範学院でいままで松本大学に留学した先輩はみな3年生でした。ですから2年生で交換留学生として選ばれて本当に光栄でした。
 しかし、日本へ留学した当初、私は本当にとまどってしまいました。日本語が分からないのです。あれだけ一生懸命勉強していたのに、まるで道を見失うかのように迷ってしまったのです。とてもショックでした。一生懸命暗記した単語や文法だけでは足りなかったのです。例えば、日本に来たばかりの頃、足を捻挫し、病院に行ったのですが、お医者さんに「どうしましたか」と聞かれても、自分の症状がうまく説明できないのです。「足が痛いです・・・」やっとそういうと、「どんなふうに痛みますか」「あのー・・・・」私はその頃、「ズキズキ」、とか、「ズキンズキン」などの表現は全く知らなくて、うまく説明できなかったのです。自分が情けなくなって、すっかり自信を失ってしまいました。
 考えれば大学の2年間、私は日本語能力試験に合格することだけを目指して、単語や文法の本を読み返して、暗記ばかりしていました。しかし、外国語学習は水泳に似ていることに気づきました。ずっと机の上で単語や文法を勉強しているのは陸の上で水泳の練習しているようなものです。たとえ陸で完全に身につけたとしても、いざ水の中に入ってみると、水圧、水の中の恐怖で、結局学んだ知識はうまく発揮されないのです。言い換えると、日本語学習に一番いい方法は、やはり、実際に日本人と話をすること、交流することなのだと気が付きました。
 私の母校、嶺南師範学院には、素晴らしい日本語プログラムがあります。4年間のプログラムは「読む」、「話す」、「聞く」、「書く」の授業だけでなく、文化や言語学、礼儀などを教える授業もあります。日本語能力試験一級に合格する先輩もたくさんいます。しかし、一方で外国の人と交流する機会はとても少ないのです。現在、母校には2万3千人の学生がいますが、留学生はほとんどいません。それに先生方が千五百人ほどいらっしゃいますが、その中で日本語学科の日本人の先生はたった2人です。つまり、日本語学科の学生なのに、日本人と交流できる機会は本当に少ないのです。
 今、松本大学に留学して、周りは日本人がほとんどです。こんな機会は中国では得ることができません。そこで私は日本人との交流に努めました。松本大学では、宿題の課題について先生と相談をしたり、「異文化コミュニケーション」という授業、「国際交流クラブ」などの活動を通して、日本人学生と交流したりしています。そこではお昼にミーティングをしたり、文化祭で屋台を出したり、インスタグラムを作成したりしています。また、近くのお蕎麦屋さんでアルバイトもはじめました。
 そして、ある日こんなことがありました。そのアルバイト先のお蕎麦屋さんで、あるおじさんに料理を運んだ時のことです。おじさんは私の名前と「松本大学交換留学生」と書いてあるバッジを見て、「中国人ですか?」と聞いてくださいました。「はい、そうです。中国から来た留学生です」それを聞いてから、おじさんは財布を出して、「うちの息子も今も中国語を勉強しているよ」と言いながら、財布の一番奥から、きちんと折られた小さな一枚の紙を取り出しました。そこには「日本和中国人民要成?好朋友」、日本語で「中国人と日本人は仲良くしましょう」と書かれていました。おじさんはこのことばを中国語で丁寧に読んでくださいました。
 この優しい言葉はずっとずっと心にこだましています。言葉は相手の心を開ける魔法、とくに相手の母語で会話すれば、心まで伝えられると聞いたことがあります。まさに、そのことばが実感として響いた瞬間でした。帰り際、おじさんは「あなたの日本語を、ぜひ中日友好に生かしてください」と言ってくださいました。
 その瞬間、誰かに背中を強く押されたような気がしました。これが、まさに外国語学習の意味なのではないでしょうか。日本語の勉強の目的は単語や文法を暗記し、試験に高い点数をとることを目指すことではありません。「これから両国の友好関係を築くために、私は日本語を勉強し続けたい。相手の母語、日本語で話をし、相手の心に届くような交流をしたい」。そう心から思いました。
 そして、私は中国の人にも日本が豊かな文化を持って、平和で美しい国であることを伝えようと思いました。まず、日本語を勉強するのを反対していた両親、そして友人に自分の経験を伝えました。アルバイト先で出会った日中友好のおじさんのこと、強い風で飛んだ私の洗濯物を拾って、綺麗な袋に入れて、寮の玄関に置いてくださったご近所さんのこと、また、友人と東京旅行した時、新宿駅で財布を落としてしまい、こんなに混んでいるところででてこないと思ったら、何と現金が入ったままの財布が戻ってきたこと、松本の祭り、松本ぼんぼんに参加して、朝から晩まで踊って、一緒に写真を撮ったこと、など、一生懸命伝えました。
 すると、両親は「すごいね。見習うところがいろいろあるかなあ」「せっかくのチャンスだから、色々勉強してきてね。」と日本語の勉強を認めてくれたのです。同じ専門の友人は「まつもとぼんぼんの写真、いいね、私も松本に行きたいなあ。」、「日本の大学生活はどう?部活は面白そうですね、もっと教えて欲しい!」と言ってくれました。私は留学生は日本語の勉強と同時に、その国の文化を体験し、それを自国の人に伝える責任があることにも気づいたのです。
 このように留学によって、私は日中交流する機会ができました。それに交流によって、私は将来自分が何をやりたいのか、目の前の人生という道が少しずつ明るくなってきました。私はやはり日本語に関わる仕事をしていたい。私は日本語の教師になりたいのです。そうして私は日本の良さを私の教え子たちに精一杯伝えていきたいと思っています。日本語を教えることを通して、中日友好に貢献したいのです。
 これから歩んでゆく道には、きっと、困難や障害がたくさん待ち受けていると思います。それでも、それがどんなに苦しい道であろうと、どんなに険しい道であろうと、この日本に留学して、一年間出会った人々や、経験した様々なことを思い出し、前に進む原動力として、素敵な人生の旅を続けたいと思います。
 そして、いつか私の教え子たちが、また、日本の人々と出会い、交流の輪を広げていってくれれば、こんな嬉しいことはありません。中日友好のために。