◇最優秀賞◇
「私が出会った人」
氏名:LE THI LINH (レティリン)
信州大学工学部機械システム工学科4年
出身国:ベトナム
 
 私にはとても好きな一つの句があります。「人の人生で出会う人の全員は会うべき人である」。私はこの句を、生涯の中の出会いは全て有意義で、人にとって何か影響を与えるものだと理解してます。私の場合も例外ではありません。私にも私の人生を変えると言っても過言ではないくらい尊敬する方がいます。私は尊敬の気持ちを込めて、その方を「校長先生」と呼んでいます。私は先生を尊敬する気持ちから留学を志し、日本語学校でも先生がいることで勉強のモチベーションを保つことができました。現在私は日本に留学することができています。
 今年は校長先生の人生を賭けて大切にしているドンズー日本語学校の30周年です。先生に贈るギフトとして、私の尊敬と感謝の気持ちを込めて、先生のことについて書かせていただきます。
 私の校長先生はベトナムでも日本でも知られているドンズー日本語学校を創立した方です。日本に留学して質が高い日本の教育を受けた経験がある校長先生は、母国であるベトナムを発展させたいという情熱的な思いを抱え、日本に留学したい学生を支援しています。「自分の力と自分の学生たちの力を合わせ、どうか母国の将来に役に立ちたい」は校長先生の生涯の理念です。
 目をつぶって想像してみてもらいたいです。私が日本に留学することをまだ決めずにドンズー日本語学校の試験を受けてみて、初めて先生と出会った時の話でした。紹介された後、ステージに校長先生が上がってきました。とても優しそうなお爺さんでした。その時、校長先生はもう77歳でした。年齢の影響なのか分からないがマイクを持っている先生の手は絶えず震えて、先生の声も震えながら枯れているように聞こえました。しかし、先生の話の中からの猛烈な愛国の気持ちと熱血な理念が会場中に広がって、私の心まで響きました。
 「もう一回考え直して、あなたはなぜ日本に留学したいのか?ベトナムの歴史を渡って、私たちの祖先は自分の血、涙、命を犠牲にして今の平和なベトナムを作ってくれた。その恩は絶対に忘れてはいけない。もらった恩を次の世代の後輩に残してください。」その言葉は今までずっと自分と自分の家族のことしか考えていない私を目覚めさせてくれました。
 そうです。校長先生の言葉は、私を生みここまで育ててきてくれた両親への恩の他、戦争で犠牲となった人たちと平和な母国の恩も受けて生きてきたことを気づかせてくれました。私は両親の他に母国にも恩返しをしなければなりません。そんな校長先生から受けた想いとモチベーションのおかげで日本に留学して毎日必死に頑張り続ける私がいます。
 そのきっかけで私は校長先生のドンズー日本語学校に入学して日本語を学び始めました。私がドンズー日本語学校に入学してからも、毎週の木曜日の午後に、雨の日だろうが、暑い日だろうが、校長先生は毎週私のセンターに学生と話すために来ました。日本語の勉強の仕方、理系の本の読み方、数学や物理等の解き方を丁寧に教えてくれました。私たちが間違っても怒ったり叱ったりせずに、もう一度丁寧に教えてくれました。まるで、自分の学生を自分の孫のように大事に優しく扱っていました。年齢のせいで長時間立って喋ったら息が切れそうで、呼吸が荒れてしまうのに、休憩もせずに熱心に教えてくれました。そのような先生の姿を見るたびに、感動してしまいます。いや、「感動」という言葉で足りません。私は恥を感じるぐらいです。「先生はこんなに歳取っても国のため、自分の学生のために疲れを忘れるほど頑張っているのに、若者の私はこんなこともできないか」といつも恥ずかしく思っていました。その思いは私のモチベーションになってくれました。「お前は校長先生を鏡にしてもっと努力しろ」といつも自分に言い聞かせ続けていました。
 皆さんがご存じのように、日本語はすごく難しい言語だと評価されてます。私も日本語を勉強するためにとても苦労をして諦めてしまいそうな時も何回かありました。そんなときに校長先生の言葉、必死に教えてくれる姿、優しい声が励ましてくれたため、何とか乗り越えてきました。校長先生と出会わなければ今日の私が居ないことをいつも心に刻み込んでいます。
 ドンズー日本語学校で勉強する時だけでなく、来日の飛行機に乗る時も、先生が空港まで見送りに来てくれました。夜便でも構わず、先生がいつも見送りに来てくれました。これから来日の私たちのことが心配だから、一つ一つ直接に伝えたいから、わざわざ来てくれるそうです。「大変な時こそ人が伸びるから、日本に行く最初の目的さえ忘れなければどんな困難な時でも必ず乗り越えていける。君たちならできる」と。これから日本に行き、慣れない環境で日本語を勉強しながら大学受験の準備をしないといけないという不安でたまらない私は、先生のその餞の言葉で決意を新たにしました。目の前の日本に行く道が輝いているように見えました。先生が来てくれるだけで「私ならできる」と沢山の力と勇気をもらえました。
 それから、私たちは日本で勉強している時でも、先生は一年間2回ぐらい、私たちのことを心配で日本まで見に来てくれました。先生の学生は2000人を超えるぐらいなので、毎回先生は自分の学生に会うため日本中を回っています。先生は、ある一つの地域の学生と会って何時間か様子を見て話してから、また電車かバスに乗って他の地域にすぐ移動します。ベトナムでの仕事がすごく忙しいから、できるだけ短い時間で沢山の学生と会いたいらしいです。普通の若い人ならそんなに沢山移動したらものすごく疲れるでしょう。しかし先生はいつも、日本で活躍している自分の学生をみたら疲れないよって優しく言ってくれます。私は先生がどこからのモチベーションでそのような偉大なことできるのか理解できません。多分それはベトナム母国に貢献したいという愛国の気持ちと自分の学生たちに発展している日本で成長してほしいという次の世代を思っている気持ちがあるからと思います。
 自分のためでなく、自分が疲れても次の世代に何かができればそれで嬉しいという猛烈な気持ちは本当に尊いものだと思います。それだけでなく、毎年のベトナムのお正月の時になったら、帰国できない学生のために手紙を書いてくれています。ベトナム人にとってはお正月は一番大事なイベントで、家族で過ごす貴重な時間です。母国に帰らずに日本で頑張っている学生たちが家族と故郷を恋しくて悲しいだろうと思って、手紙で慰めてくれています。手紙の中の言葉の一つ一つはまるで先生のその時の優しい思いと学生に対する深い愛情を運び届けてくれます。今年も頑張れる気持ちにしてくれます。
 校長先生に出会って先生の学生にならなければ今の私は居ません。先生は私の留学の道を開いて導いてくれたおかげで、日本で活躍している私は居るのです。言葉で伝えきれない感謝の気持ちはいつも心に秘めています。
 今年は校長先生が心血を注ぐドンズー日本語学校の丁度30周年です。この折に、この作文を先生への手紙としてお送りしたいです。
 

◇優秀賞◇
環境は変えられないが、自分は変えられる 
 ??COVID19に思うこと
氏名:馮雨薇 フウ ウビ
信州大学農学部森林・環境共生学コース1年
出身国:中国

 新型コロナウイルスがこの世界に現れてもうすぐ2年がたつ。思い返せば本当に激動の2年間だった。今でもコロナが現れた時のことを鮮明に思い出すことができる。テレビやインターネットで様々な情報や映像、憶測が飛び交い今いったい何が起こっているのか、これからどうなってしまうのか、不安で仕方がなかった。人が街中でどんどん倒れていく映像や、病室がいっぱいで床に寝かされる患者の映像など本当にショッキングなものをたくさん目にした。初めは中国国内にしかいなかった感染者はあっという間に世界中へと広がっていた。1人、2人、そしていつの間にか一日に数千人のペースで感染者が増えていき、国際的な問題になった。これまでここまで世界を混乱させたことがあっただろうか。少なくとも私は生まれて初めての経験だ。世界中のすべての国が共通の敵と戦っていて、自分もその戦いの1員であるというのは非常に不思議な感覚になった。
 銃声なき戦いの中、日々最前線で奮闘しているのは医師、看護師たちだとニュースで見た。人々はいつも彼らを白衣の天使と呼ぶのが好きで、しかしあれは何の天使があって、ただ私達と同じ平凡な人間が純粋な心を抱いて白衣を着ただけである。彼らは白衣を身にまとい、新型コロナウイルスの最前線で戦っている。勇敢な戦士のように、ウイルスを敵と見なし、病院を戦場と見なしている。私は尊敬に満ちている。彼らにも家族がいて親がいて、彼ら自身も感染する危険がある。責任感がなく、熱意もなく、給料だけでは、感染拡大は絶対に抑制されないと思う。
 そのような激動の社会の中で私の人生も大きな転機を迎えた。それは日本への留学だ。私は幼い頃からアニメから伝統的な芸能まで日本の文化がとにかく大好きだった。侍にあこがれたし、いつか自分も武士のように勇敢に困難に直面することができることを望む。スタジオジブリの映画は何度も何度も見た。私は日本庭園が大好きで、いつか「足立美術館」のような素晴らしい作品をデザインしたいと思っている。そのため、日本語学校の時は「卒業後は絶対に日本の大学で庭園文化を学ぶ」という強い意志の下で日本語の勉強も自主学習もとにかくがむしゃらに頑張った。
 時にはくじけそうになったりしたこともあった。だが、それ以上に新しい世界への期待感でいっぱいだった。そして、がむしゃらな努力の末に大学へ入学できることになったのだ。長年の夢が叶い、本当にうれしかった。家族や友人も私の夢を応援してくれて、日本での新しい生活に胸を膨らませていた。大学に行ったら日本人の友達をたくさん作って、たくさん旅行しよう。そう思っていた。しかし、実際の大学生活は思い描いていたようなものではなかった。コロナの影響で授業はずっとオンラインのままで、大学の友人にはまだ一度も会えていない。旅行や観光にも気軽に行けなかったため、ほとんどを家の中で過ごしてきた。異国の地で日々進展するコロナの情報を気にしながら、時には孤独と悔しさで泣いた日もあった。今まで私はもう2年帰国していないので、よく友達と冗談を言っている。私が家に帰るのを待っている母は、すべての私を知らないかもしれない。
 しかし、ある日「このままではいけない」と思うようになった。それはいつも通り自宅でオンライン授業を受け、予定もないからだらだらと過ごしていた時の事だった。テレビでコロナ禍に起業して努力している学生を見かけたのだ。彼は私と同じ大学生で、コロナがきっかけで家にいる時間が増え、プログラミングを始めたのだという。そして1年間で技術を磨き、アプリ開発まで行ったのだ。私はその学生の姿を見た時にひどく感心すると共にいてもたってもいられなくなった。自国を離れ夢に心を膨らませて日本に来たのに、コロナを言い訳にして努力を怠っていた自分に気づいたのだ。オンラインだろうと自宅にいようと、置かれた環境で自分ができることを見つけるべきだった。
 その日から私は自宅で庭園施工管理士の受験に向けて学習を始めた。なぜなら、それが自分の置かれた環境で、自分が挑戦できる最大のことだと考えたからだ。さらに今は日本企業での長期インターンシップへの参加に向けて独学でビジネスについても学んでいる。地道な道ではあるが、日々進歩している気がしてとても楽しい時間を過ごしている。
 確かにコロナの登場は予想外だった。きっと世界中の人にとってそうだろう。思い描いていた学生生活は送れていないし、お世辞にもここ1年は最高だったとは言えない。しかし、コロナのせいで新しい価値観を得ることができた。それは「自分が置かれた環境で最大限に努力する」ということだ。この世界には自分の力ではどうしようもないことがある。一度起こってしまったことは戻せない。日本中の学生がオンライン授業を強いられているのだ。その際にその状況にひたすら文句を言い、言い訳の材料にするのではなく「じゃあ、今自分は何ができるだろうか」と考えることが重要なのだ。
 環境は変えられないが、自分は変えられる。変えられないものにエネルギーを使うよりも、変えられるものに使った方がいいにきまっている。それに、コロナが登場していようがなかろうが、きっと努力する人はどのような環境でも努力する。反対に怠け者はひたすら努力しないための言い訳を探すのだ。「時間がないから」「賢くないから」と言って、挑戦から逃げる人は少なくない。しかし、私は前者でありたい。例え授業がオンラインでも、行動が制限されていても、最高の学生生活を送れるかどうかは私の考え方次第だ。だから私は悲観的にならずに今の自分の生活の中で最大限の努力をする。それは自国で応援してくれている家族、友人、そして何より私自身のためだ。


◇優秀賞◇
留学によって切リ開く私の人生
氏名:章 鳴浩 ショウ メイコウ
信州大学工学部建築学修士2年
出身国:中国

2013年の夏、大学の図書館で『白』という本を偶然に見つけた。著者は、日本で有名なグラフィックデザイナーで武蔵野美術大学基礎デザイン学科の教授を務める原研哉である。実は、当時、原氏のことを知っていかなった。この『白』は、デザインも色も非常にシンプルであるが、知らず知らずのうちにそれに引き付けられた。意外なことに、その本の序文の第1句は私が日本へ留学するきっかけになった。その第1句は、「この本は色を説明するものではなくて、実際には白と呼ばれる実体を探求しようとしています。言い換えれば、白の実体を通して、シンプルと日本の美学の源を探求したいです」と。
 それでは、いわゆる「白」とは何であるか。この本の中で、白の概念が抽象的に描かれた。私の専攻から見れば、日本室内デザインと建築の白は何であるか。これらの問題を持ちながら、大学卒業後に、日本に留学して自分の専攻を研究し続けることを決心した。2018年7月、日本に着いた後、東京で1年半の言語知識を学んでいた。
 言語を学んでいる他、兵庫、千葉、神奈川などによく旅に行った。自分で日本の特別な文化と歴史の雰囲気を体験していた。日本人にとって、白が人々の不可欠な部分になったということに驚いた。町の広告でも、製品パッケージでも、白のマークを見つける。これは中国の赤のようで、豊かな意味を持っている。もっと深い視点から見ると、白は色だけでなく、容器も指すことができる。この容器は、現在と未来が満たされるという意味がある。たとえば、日本の国旗は主に白と赤で構成されているので、赤は太陽を代表すると思われる人が多いが、白はどのようなことを代表するか。それは人によって異なっている。たとえば、医師にとって、それは生命を代表するが、患者にとって、それは希望を代表する。警察にとって、それは使命を象徴している。
 日本の室町時代、日本人は西洋の繁栄と複雑という矛盾の美を発展させた。それはいわゆるミニマリズムである。当時、応仁の乱の火事により、多くの文化芸術作品が焼かれていた。幕府将軍足利義政がそれを見て非常に悲しんでいた。しかし、その後、銀閣寺に代表される東山文化の台頭は、足利義政を少し安心させた。
 銀閣寺には「同仁斎」という部屋がある。足利義政将軍が引退後にほとんどの時間をここで過ごした。屋内には約7平方メートルで、その中には一つのテーブル、左側では本棚である。部屋の壁は障子で構成され、窓はミニマリストの移動可能の紙製屏風である。テーブルの右側では、廊下につながっている引き戸が見られる。軒先の影と引き戸の白い光は和風建築の空間の起源を構成した。
 千利休の時代に、日本の「茶室」が縮小された。実は、きらびやかな外見より、優雅な儀式を最も誠実なもてなしの方法として追求した方がいいと。日本の茶道では「一期一会」という言い方がある。それは今日の一会が生涯に二度とない会だと思うことである。したがって、すべての出会いを大切にすべきである。茶室はミニマリズムで面積が縮小されるが、客とお茶を味わいながら、真摯な心で互いの考えを交流する瞬間、すべての想像力が茶室で限りなく広がっていく。
 千利休の「利休七則」がとても好きである。その内容は以下のとおりである。

 茶は服の良きように点て
 炭は湯の沸くように置き
 夏は涼しく冬は暖かに
 花は野にあるように生け
 刻限は早めに
 降らずとも雨の用意
 相客に心せよ

 利休七則は非常に簡単な言葉で心の最も誠実なおもてなしを表現している。
 いままで、知らずのうちに、日本に留学してから3年間になった。留学とは何か。留学が将来により良い仕事を持つと考える人が多いが、私にとって、日本への留学は、単に将来により良く就職することではなく、より多くの給料を得ることでもない。『白』を見たことをきっかけに、日本に留学すると決心したが、この本を読んだ後も、それを理解しにくい。では、白は一体何か。ずっと自分の答えを探しているが、今日まで、日本への留学と自分の人生経験を通して、いわゆる白は「無限」であることがようやくわかった。
 この「無限」の意味は、互いに最も誠実な心で交流することをはじめとして、物事に関する異なる意見を交流し、互いの考えを交換することである。これは日本の茶室と同じである。千利休の時代に、日本の茶室面積が縮小された。綺麗な建物と飾りものは、茶道を求める意義ではない。本当の意義は、まず最も誠実な心でもてなすこと、ゲストと最も誠実な交流ができる。いわゆる世界の誠実は茶道のように、誠実な気持ちで出会うすべての人や物に接する。お茶自体にはいかなる意味がないが、誠実な交流でお茶の味を体験することができる。それはおそらく人生である。
 個人の視点から見れば、白と茶道を通じて、世界の多くの人生哲学を学んでいた。人も物も、心から真摯に接すると、すべての疑問に真摯に答えてくれる。将来、この留学の経験は私にとって非常に貴重で忘れられないものである。日本での留学は、今後の人生観も大きく変わっている。勉強、仕事、恋などには共通点があり、留学の生活と勉強は、この前の生活観と人生観を変えるので、日本での勉強と生活は、私の一生に役立っている。
 国家の視点から見れば、日本と中国は一衣帯水の隣国で、文化や歴史に多くの共通点があるが、異なるところもある。共通点と相違点があってこそ、両国が交流する機会になった。中国人留学生として、日本は中国にとって、勉強する価値のある場所がたくさんあると思う。歴史や文化の面だけでなく、世界で日本は先進的な医学や工業などがあるので、中国も学ぶことができる。したがって、日本でもっと多くの知識を学びたい。これらは私の人生にとって非常に重要な意味を持っている。また、日本人と中国人学生はより多くの文化と交流の機会があるように願っている。
 最後に、日本での生活で、日本の親切な方々からの助けに心から感謝しております。そして、松本ワイズメンズクラブ事務局 みな様、学習において、東京語学学校から信州大学までの先生の皆様、いままでの支援と助け、ありがとうございました。今後の勉強と仕事も頑張っていきます。
 







◇佳作◇
私の祖国、住んでいる町、出会った人
氏名:金 燦圭(キム チャンギュ)
松本大学交換留学生(東新大学) 国際語文学部観光日本語学科4年生
出身国: 韓国

 私の祖国は韓国である。韓国は上に中国、下には日本があって、二つの国と時に交流し、時に戦争をして多くの困難を経験した国である。日本植民地時代から韓国戦争、IMF経済危機など何回も国がなくなる危機もあったが、その度に国民が力を合わせて戦った。今は世界の国々に名前が知られるようになった。その中でも一番誇らしいことは韓国の文化、特にエンターテインメントが外国に礼賛されているということだ。BTSをはじめ、ブラックピンクのような歌手も全世界を回って公演をして多くの国でファンができたし、ドラマ、映画も『梨泰院(イテウォン)クラス』、『愛の不時着』、『イカゲーム』など色んな国から好評を得ている。
 このように韓国の文化が他の国にも知られるようになったことにつれて、私も自信を持って、祖国の文化を外に向かって話すことができるようになった。以前は外国人と話すと、韓国のドラマや歌手について知らない人が多かったが、今は韓流人気がすごくて、興味を持って聞いてもらえるようになった。世界の人々が私の祖国の文化を知っていることで、私もどんどん祖国が好きになって、「この国に生まれてよかった」と自信をもって言えるようになった。
 私が住む町についても自信をもって皆さんに知ってほしいと思う。現在、私が住んでいる町は韓国の地図を見れば左の下に位置している。全羅南道(チョルラナムド)の木浦(モクポ)である。この町は海と近いので新鮮で、上質な水産物があり、船に乗ればロケ地として有名な済州島(チェジュド)も近い。そのせいで小学校、中学校、高校共に修学旅行すべてを済州島に行った。    
 もし、この町に来た外国人や他の地域の人々を案内するなら、紹介したい場所が二つある。一つ目は近代歴史博物館である。この町は昔、日本植民地時代に日本領事館と東洋拓殖株式会社があった町である。この建物が博物館として使用されている。私もこの町に15年暮らしながら、昨年初めて行った。思ったより展示が行き届いていた。時代の変化に伴ってこの町はどのように変化しているのかを模型が作られていて、よく分かるようになっている。私が行った時、先に来ていた老夫婦と少し話をした。この老夫婦はこの町へ観光に来たが、この展示を見てまるで昔からここに住んでいるような気分がしたと言った。ここは2019年に放送したドラマの舞台にもなっていて、観光客も多い。
 二つ目は「踊る海の噴水」である。この町は海と近い。それで、海を見ながら歩く散歩道がきれいに整備されている。その中でもっとも長い散歩道では4月から10月まで「踊る海の噴水」のショーが催される。「踊る海の噴水」とは海水の噴水が音楽に合わせてまるで踊っているように見えることからくる。最初にこれを見た時にその魅力にはまって、コロナが流行する前には、月に一度はビールを買って飲みながら、踊る噴水を眺めた。
 最後に私が出会った人の中で記憶に残る人々について書いてみたい。実は私が今のように積極的に発信ができるようになったのは、この人々のおかげである。
最初は高校の時に出会ったカウンセリングの先生だ。私が成人になって出会った人たちは知らないと思うが、私は高校の時まで自信がなくて、周りの人たちと向き合うことができなかった。お昼の時間にはいつも図書館に行って、本を借りて読む学生であった。小学校と中学校の時はそれでも何の問題もなく過ごしたが、男子高校に入学してから、静かに本を読む人をいじめる学生がいて、学校生活が苦しかった。それで、このままだとダメな人間になると思って変わりたいと思った。
 まず、この消極的な性格を変えるために地域の青少年カウンセリングセンターに行った。韓国ではカウンセリングを受けるのを忌み嫌う人が多い。カウンセリングを受けるというのは、この人が精神的に何かの問題があると思われるからである。そのせいで、私がカウンセリングセンターに行くのを母は反対した。でも自分自身が変わるために必要だと思って、母を説得した。そして、カウンセリングセンターに行った初日、先生は私の悩みを聞いてくれた。「この性格でいじめられている。この性格を変えたい」と言ったら先生は「君がいじめられるのは君の性格のせいではない。いじめをする人が悪いだけだ」と言ってくれた。
 それを聞いて本当に悪い人は私をいじめた人なのに、なぜ私のせいだと思ったのか自分に申し訳なくなった。でも、いじめた人に、はっきり「いじめるな」と言えなかったのは、自分が消極的な性格だからと思ったので、カウンセリングを受け続けた。そして、私の情熱を見て先生も一生懸命にカウンセリングしてくれた。おかげで大学に入学して周りの人々と仲良くなれるようになった。本当にカウンセリングの先生に会えてよかったと思っている。
 次は現在、韓国で通っている大学のユウ先生だ。高校の3年生になって未来について真剣に思う時期になったころ、日本語に興味はあるが、勉強には興味がなかったので大学へ行くべきかどうか悩んでいた。その悩みを聞いた母は、色々な大学が集まった説明会に行って、そこでユウ先生に出会った。ユウ先生は話を聞いて私にメールで連絡してくれた。そして観光日本語学科について詳しく説明してくれた。その中で交換留学と海外インターンシップに興味がわいて、今の大学に入学した。大学に入っても将来についてユウ先生に相談をすると、その度に相談に乗ってくれた。おかげで私は今、リモート留学だが、日本に交換留学ができ、将来について深く考えられるようになった。今の私がいるのはユウ先生のお陰だと感謝している。
 そして、私がつらかった高校の時に力になってくれた友について書きたい。彼とは高校に入学してまだ友がいない時に、私と同じく日本のアニメが好きだと分かって、すぐ友人となった。そして、今も私の側にいてくれるいい友である。私が消極的で話がよくできなかったのに、話かけてくれたし、他の友達にも紹介してくれた。彼のお陰で高校の生活が楽しく、充実したと思う。
 最後は私の親である。親は私が世に生まれて初めて出会う人で、今までの人生の中でそばにいてくれた私の大切な人である。そして親にとって、私も大切な人であることも分かる。母と一緒に外でお昼を食べる時に時々子ども連れのお客さんがいる。母はその子どもを見ながら私が幼い頃の話をする。顔に広がる笑顔を見るたびに、私も親にとって大切な存在だと気づいて気持ちが温かくなる。韓国のことわざに「親は子ともの鏡」という言葉がある。そのことわざの通り私は顔も性格も親に似ていると思う。子育ては簡単なことではない。私の親も私が生まれてIMF経済危機が来て大変苦労したと思う。「でも、家族の笑顔を見て、勝ち抜いて、今の家族ができた」と話してくれる親を誇りに思う。私もいつかこんな親になりたい。
 この作文を書きながら、色んなことを考えることができた。今まで過ごした祖国、今住んでいる町、今まで出会った人々について深く考えて、すべてが大切なもので、大切な絆だと気づくことができた。私が今、自信を持ち、積極的に生きていられるのは、私を育んでくれた国、地域、親をはじめとした周りの人々のお陰だと心から思えた。作文に挑戦して本当によかったと思う。


◇佳作◇
留学によって切り開く私の人生
氏名:ムンフバト アリウンボルド
(MUNKHBAT ARIUNBOLD)
出身国:モンゴル
信州大学大学院工学部総合理工学研究科2年

 私は来日してからもうすぐ6年目に至ります。来日してから私の人生はどのように変わったかを真剣に考えたことが全然なかったです。これを機にして、振り返って見ると、私の人生は日本留学によって大きく切り開いたと自信を持って言えます。
 私の将来の夢は土木エンジニアになり、モンゴルの環境や気候に適した安全な道路や橋などを建設し、国民が快適に過ごせる街づくりに貢献することです。その理由として、現在、モンゴルでは舗装道路の破損が大きな問題となっており、国民の生活に大きな悪影響を及ぼしています。その主な原因はモンゴルの環境や気候に合わない安価な道路敷設によるものです。私は高校3年生の時、モンゴルの道路と排水溝について調査を行ったことがあります。その調査の結果、舗装道路は車を保護するためのものであるにもかかわらず、モンゴルでは車の故障や事故の原因になっているということがわかりました。したがって、新しく建設された道路が数ヵ月も経たない内に破損してしまうのが現状です。
 一方、日本はインフラや土木建設の長い歴史、豊富な経験を誇っています。ウランバートル市内に日本の援助で「太陽の道」という道路が建設されました。太陽の道は15年以上前に完成したにもかかわらず、今まで一度も破損していません。また、排水溝システムもあり道路が冠水する心配もありません。高校の頃は、毎日「太陽の道」を使って学校に通っていて、日本の技術を体感していました。日本では道路を一つの科学分野として研究しているのは、私にとっては日本の道路技術を学びたかった大きな理由です。
 そのため、日本の技術を学び、日本がどうしてこんなに経済成長をして高い技術があるのかというのを自分の目で確かめ、太陽の道のような道路をモンゴルに一つでも多く建設し、国民が快適に過ごせる街づくりに貢献し、「感動される社会」を実現させたいと思うようになりました。また、留学という人生の挑戦を通し、大学でもっと強い新しい自分へ変わりたいと思いました。それで、夢の実現のために、日本に留学しました。
 実際に来日し、信州大学でおよそ6年間学びました。私は、大学生になった時から様々なことに挑戦し、より高い目標を持って自分を成長させようと考えていました。来日してから様々な問題に直面して苦労していましたが、私をいつも支えてくれた信州大学の先生方や長野県の優しい皆様のおかげで全てを乗り越えました。日本に来てから、出会った人々のおかげで今の自分が存在していると強く認識しています。あるゆる面で弱かった私は、精神的にも体力的にも強くなったと言えます。私は、もうすぐ大学院を修了します。大学院を修了後、まず、日本で就職します。信州大学から離れることになりますが、実際に会社で土木エンジニアに必要とされる知識を身に付けることが出来るのは、非常に光栄に思います。
 日本では、社会、教育に貢献するために青年を支援し、留学生を受け入れています。これは、各国が貧困や戦争等の問題を抱えずに、幸せかつ平和な世界に住めるようにしたいということを目的としていると思いました。日本に留学してはじめて、母国のみならず世界の各国のことを考えなくてはいけないことに改めて気づきました。そうするために、まず、小さなことから考えはじめるべきだと思います。それは、両親をはじめ大学や私を支えてくれた方々の期待に応えられるようになることです。また、信州大学では各国からの留学生と交流し、仲間になりました。将来、その学生たちと仲間として世界を一緒に変えることができるのではないかと思っています。
 日本に留学したことによって、私の人生は大きく切り開いたと思います。夢の実現に向かって一歩でも進んだと言えます。これからも、一歩ずつ進んでいきたいと強く思っております。皆で協力し、肩を寄せ合ってより良い社会を作り上げていきましょう。ご清覧していただき、誠にありがとうございます。






◇佳作◇
祖国と違う日本の風習、文化、なぜだろう?
氏名:ジョ チャニョン 
   Cho Chanyeong
信州大学工学部機械システム工学科2年
出身国:韓国
 
 私の祖国である韓国は日本とお互い近い距離にあるが、お互いの国は風習や文化が違うことが多い。隣接する国であれば、文化風習も同じでなければならないのではないかと考えるのが一般的だが、韓国と日本はかなり違うと言える。多様な原因は存在するだろうが、韓国と日本は言語の違いによってもっと克明な文化と風習の違いが現われたと考えられる。
 まず、韓国語(ハングル)と日本語は両方全部、漢字文化圏から影響された言語であり、漢字になっている単語が多く、そのため似ている発音も多い。日本はひらがなとカタカナと漢字を使うが、韓国はハングルだけを使っている。韓国語で漢字を表記していないことから韓国語は漢字から影響されていない言語だと考えるかもしれない。しかし、ハングルで表記しても根本は漢字で、表記はハングルにしているだけで、漢字は韓国語で50%以上の割合なので漢字が韓国語と大きく関わっていると言える。よって、韓国語と日本語は全部漢字から影響を多く受けた言語である。
 韓国語と日本語は文法も似ていて、文章構成が(主語→ 動詞→目的語)である英語と違って、韓国語と日本語は(主語、目的語、動詞)なので同じ文章構成をしている。よって、同じ文章構成から単語だけを変えることで韓国語から日本語になる。このように、韓国語と日本語は似ているところが多い。しかし、韓国と日本はお互い近いが「遠い国」と呼ぶ。これは、お互い似ているが、根本的に異なる言語の違いから生じる。
 日本語の授業の時、韓国語の「??? ??(インメギノルダ):人脈が広い」という文章が日本語の慣用的な表現で何かと質問されたことがある。当時、私は当然日本で使う表現が韓国で使う表現と同じだと思って「?? ??(バリノルダ):足が広い」と答えた経験がある。しかし、日本では「足」ではなく、「顔」が広いという表現を使う。韓国は人間関係を広げるためにはあっちこっち歩き回って多様な人に会わなければならないことから「足が広い」という表現を使う。ところで、日本はその人の顔を多くの人が知っているという意味で「顔が広い」を使える。韓国人は「交際範囲」を話す時、「顔」よりも「足」を連想するが、 日本人は「交際範囲」を言う際、韓国人とは違って「足」ではなく「顔」を思い浮かべると言える。このように慣習的な連想は言語ごとに異なることがある。これから韓国と日本の違う表現について2つの例を詳述していく。
 まず、日本語の慣用句の「腹が立つ」である。韓国語で同じ意味の動詞は「???, ファナダ」である。多くの韓国人がこの日本の慣用句を見ると、意味が分からない人が多い。特に、私は日本語を勉強する時、初めてこの慣用句をお腹が突出している人や太っている人に「あっ君、腹が立ったね」のようにからかう時に使う言葉だと考えた。色々な由来があるが、昔の日本には、腹の中に精神が宿っていると信じたことが有力である。この代表的な例としては、「ハラキリ」として韓国を含めた海外でも有名な切腹がある。「切腹」は武士にのみ許された名誉の死に方のことで、日本人は腹を切ることは体だけでなく、精神や魂まで殺すことを意味した。従って、腹が立つは「怒る感情がこみ上げる」と理解することができる。
 次は、「足元を見る」である。これも同様に、多くの韓国人が分からない日本の慣用句である。私がこの表現に関する文を読んだとき、最初は「相手の足を見る」ことは、「相手に対して頭を下げる」ことで、尊重を表す表現だと理解した。しかし、元の意味は、相手の弱点を見つけて付け込むという意味である。江戸時代の宿屋やかご屋は、旅人の足元を見て疲れ具合を判断し、料金を決めた。旅人は、とんでもない価格でも疲れている場合は承諾してしまう由来から生じた表現である。
 これらは日常生活で多く使われている表現で、日本人としては当たり前な慣用句であるが、韓国人や他の国の人がこれらの慣用句を見たら理解できないことがほとんどである。よって、自分の国と違う言語の慣用句が理解できない理由としては、「言語はその国の人々の文化、情緒、背景などが染み込んでいて、その言語を使う人々の考え方に大きく関わっている」からである。このことから、使っている言語が違うので「韓国と日本が近い距離にあっても、それぞれ違う文化と風習を持っている」という結論につながる。考え方に大きな影響を与える言語の違いから、それぞれ違う文化と風習を持つようになって、結局、お互いが理解できなくなる。これらの問題を解決するためには、お互いを理解しようとする志とぞれぞれの言語を勉強することである。
 上記の例の慣用句で、由来を分かることで、外国人が和文を勉強する時、その表現がなぜそういう意味になったかが分かるようになり、おもしろくて覚えやすくなると共に、相手(日本)のことをもっと分かるようになる。私も日本語を勉強するときにこのような勉強方法が日本語実力の向上にとても役に立ったし、日本のことをもっと理解することになった。他の言語を勉強する普通の学生は単語を覚える時、「この言葉、どうしてこのような意味になったかな」と思うより「やべ!!明日、単語テストだ。時間がない!早くこれを暗記しなきゃ!とりあえず覚えよう!」という、こうした経験が多いだろう。しかし、英語を含めて言語を勉強するとき、解釈はできても意味が分からない場合が多く起こる。これは、お互いの文化の差を表す。文化が違うため使う表現が理解できなくなるのは当たり前なことである。
 言語を勉強するとき、単なる暗記ではなく、「どうしてこのような意味になったか」や由来などを考えながら勉強することが重要である。その言語に含まれている文化や風習や相手の考え方が理解でき、更に相手のことがよく分かるようになるからである。アメリカの作家であるリタ・メイ・ブラウンが「言語は表に出ない力を発揮する」と言った。このように由来を通じて、そして相手との違いを考えて理解しながら言語を勉強すれば、勉強が楽しくなることと共に、さらに異文化まで理解することができる。そしてこのような背景を理解した上で、多くの対話と交流をすれば相手とのいい関係を築くこともできると私は信じる。これは現在の日本と韓国に同様に適用でき、言語を通じて相手のことが良く分かった人々が増えたら、これからの日韓関係の改善にも大きないい影響を与えると考えられる。
 
 
◇佳作◇
人生の豊かとは経験である
この世で会う全ての人と経験は金で買えない大切なもの
氏名:ホン ハラン HONG HARAM
信州大学理学部数学科2年
国籍:韓国

 自分が日本に留学をしたいと決断した理由は多くの違う経験をした人と会うためである。経験は時にはお金で買ったり身近なところで得られるものもある。しかし、人と触れ合い方、人の考え方の共有、いろんな人の違いの認め方などお金などで買えないものがこの世には多い。私は、このお金で買えないものを探しに留学を決めた。
 留学を準備しながら予備校での出会いから私には刺激としてきた。人によっては留学というものがとても簡単でやりたいと思えばいつもできるものであるが、予備校で出会った1人の少女にはそんな簡単なことではなかった。まず、親に日本という国は歴史的に悪縁だからそんな国で勉強することは反対するととても強く言われていた。
 今の時代はグローバルな社会で、歴史的にどうであっても旅行には行くし留学もできる時代であるが、韓国と日本みたいにまず国家の関係が誰にも大きい壁になることもある。その少女は親を説得することに成功できず、自分から予備校に通うためのお金を稼ぎ、昼は勉強、夜はアルバイトをしていた。この少女の心の中にどのくらい留学したいという意思があるのかはわからないが、この少女が経験したこと、また留学の道を歩もうと思ってる若者たちは、いろんな国の人と生きているこの時代でいつか日本と韓国の関係回復に寄与できる1人となれる人材はこうやって増えているのかと思った。
 私は日本に10年、韓国に10年住んでいて誰よりも日本と韓国の両方を理解していると思ったが、頑張っても経験できること学べることには限界がある。比較的簡単に留学を決断できた自分には予備校であった少女を出会うことでグローバルな人材として活用されるため、またいろんな立場に置かれている人を理解するための大事なことを得ることができた。
 その次は、大学という空間に入っていろんな人と出会えたことである。私は国立大学理系の理学部に在籍して数学を勉強している。数学科というコミュニティーで会った人は今までの出会いとは違った。みんな数学が好きで数学を勉強したいという思いで集まっていて、今まで人間関係の中で気が合う人を探してきた時間が無駄に感じるぐらい気が合う人たちだった。最初は日本の友達に受け入れてもらえるのか仲良くなれるのかとても心配であった。日本語がどれだけできても名前から私は外国人であり日本とあまり仲良くない韓国からきた人であった。自分は異邦人であり外国人でありながら日本という国で生きていき、ここの人と仲良くなることは意外と難しいことであることを留学に来て気づいた。
 今まで自分の国で生きてきながら当たり前だったこと、例えば携帯を買ったり、クレジットカードを作ったり、投票をしたりなどしながら難しさを感じなかったが、そのようなことが日本では簡単にできないこと、まだ自分は完全に外国人として扱われているんだと思った。こういう思いを抱えながら留学生活を送らなければいけない雰囲気から、もっと視野を広げて国や年齢、性別に関係なく受け入れ、その人としてみることができるようにこれからの未来を作っていかなければと思えたことも留学の過程の中でひとつの学びであった。
 私は大学で友達を作り友達と話ながら、日本の入試、日本の高校生、日本のカラオケ、日本の恋愛など小さい頃日本に住んでいわからないことなど短時間で日本のいろんなことがわかった。信州大学のみんなと話しながら母国と違うと思ったのは、誰も大学の順位などに劣等感を抱えてないことであり、大学の地位から自分の将来を心配する人がいないことだった。母国の韓国では激しい入試競争があり、入試が終わっても大学のレベルによって人生が決まるという考え方がとても強く働いている。
 学歴社会と別に、学歴じゃなくても社会で一人前として、何かの専門分野の人材として生きていけるという考え方がまだ日本にはついていけてないなと思った。もっと視野を広げいろんな人と出会い成長し学ぶ機会が留学を通して豊かになったと思った。
 大学生になり1人暮らしを始め、日本で初めてのアルバイトを経験した。1番に思ったのは、日本ではなんでも最初から完成度を求めたりしないということであった。韓国は素早さを求めているのでどこも経験者を雇おうとしている傾向がある。しかし、日本に来て飲食店のアルバイトを始め、先輩たちから一からちゃんと仕事を教わり今では先輩たちと同じぐらいまで仕事が出来るようになった。今まで、誰1人も完璧を求めたり上達の速さを求めた人はいなかった。
 最初はこんなゆっくりでみんな仕事ができるようになるか疑問だったが、そのうちみんな上達し、ちゃんとした一人前として成長していた。仕事場で思ったのは、日本という国はちゃんと下から時間をかけて積み上げることができる国なんだ。日本が今の先進国になったのはその基礎を組み立てることをサボってなかったからだととても思った。母国の韓国は変化に敏感で速さは保証されるが基礎的なことがちゃんとしているかというと、まだまだだと思う。これから私が人と接する時、教える時、ちゃんと時間をかけて基礎から教え、真面目に向き会うことがどれだけ大事なのか、そのことで結果どうつながるかを日本でアルバイトをしながら、また学校の授業を受けながら直接感じ学べた。
 このように日本に来てからも1人で色々感じることもあれば、新しい人と出会い経験を共有することから自分は成長していけると思う。留学を通して視野を広げ世界で活躍するためにこれからもいろんな人と触れ合い、いろんな場所へいき、いろんな経験をしていきたいと思っている。これから、もっと多くの人が国や言語の壁を乗り越えグローバルな人材として活躍するため留学を決める人が増えて欲しい。1年でも4年でもどこの国であっても、新しい環境で慣れていき、新しい人と会うことでお金で買えない大切なものをより多くの人が味わってほしい。その希望を抱えながら、私も母国のために日本のために世界のために生きていきたい。 


◇佳作◇
太陽のような平和を望む                氏名:ジョウ ウェイ アウン
   KYAW WAI AUNG
出身国:ミャンマー
丸の内ビジネス専門学校 ビジネス科
 
 「何で日本に来たのですか?」
 これは留学生である私がよく聞かれる質問です。以前の私の答えは「日本は環境がきれいだから」「日本人は礼儀が正しいから」でした。でも今は、私は答えにもう一つ加えたいです。「日本は平和な国ですから」と。
 私は2018年に母国ミャンマーを離れて日本に参りました。留学して以来、一度も国へ帰っていません。私が国を離れたとき、町は人や車で溢れて賑やかでした。ミャンマーと言うと多くの人が、内戦が多い国、という印象を持つと思います。確かに私が子供のころから、「またどこかで衝突が起きた」というニュースを新聞などで何回も見ていましたが、そのころは皆の生活はまだ安定していました。しかし、昨年の11月からその安定した生活が、危険を伴う日常に変わってしまいました。
 2020年11月8日はミャンマーの選挙の日でした。その結果、国民党が国軍系連邦団結発展党を圧倒しましたが、国軍は選挙に不正行為があったと主張して、国民連邦をけん制しました。2021年2月1日には国民が全国的に国軍に抗議をしました。しかし抗議の数時間後、国軍は国民連邦の人達を軟禁し、国の状況が外に漏れないように、3月15日に全国のインターネットの接続ができないようにしてしまいました。その結果、留学している私達は家族と連絡がとれなくなりました。
 1週間後、WiFiでようやく家族と連絡がとれましたが、個人の携帯でのインターネットはまたつながりません。つまり、限られた場所でしかインターネットが使えないのです。ヤンゴンで仕事をしている私の友達は、そこで暴動が起きたため、暴動が少ない実家に帰るしかありませんでした。友達や家族から告げられて、日本にいる私には考えられないようなことが身近で起きているのを知りました。
 ミャンマーは発展中の国で、近年は多くの国民が日本、韓国、中国などが投資した工場や会社で働いて生活しています。しかしクーデターが原因で多くの工場は閉鎖になり、皆仕事を失い、収入がなくなって生活も苦しくなりました。
 4月はミャンマーのお正月で、一番賑やかな季節です。お正月前には「水掛け祭り」があります。私にとってお正月は家族と一緒に楽しく過ごす時間、友達と一緒に楽しくお酒を飲む時間です。人々の笑顔の季節だと思います。しかし今年のお正月は、町は静かで、笑顔の人はいませんでした。ミャンマーの国民にとって、一生忘れられない悲しいお正月です。
 新型コロナ感染症の影響で、全国の学校は昨年から休校になり、今年の6月からようやく登校再開と知らされました。しかし、最近学校などいろいろな場所で爆弾が爆発したなどのニュースが毎日のように流れています。この不安な状況の中で、家族は安心して自分の子供を学校に送り出すでしょうか。
 個人の利権のために起きた衝突の一番大きな被害者は国民です。私は、以前は平和についてあまり深く考えませんでした。しかし、今回のクーデター事件で平和の意味と大事さを心から感じました。さまざまな問題に対する多くの解決方法の中で、「戦争」は一番無知で愚かな方法だと思います。「内戦」が原因で物価は上がり、紙幣の価値は下がりました。
 幼稚園で勉強した詩では「軍隊は国民を保護するため、銃は敵に向かう」と学んだのですが、今回の事件で軍隊の銃によって亡くなった人は4月までに約700人いるそうです。SNSで毎日流れている死亡者数や事件を見て、深く心が痛みます。昔は「平和」のために戦争で解決しようとしましたが、文明社会に生きている現代の私たちは文明的な方法で解決していくべきだと思います。古代ギリシャの哲学者アリストテレスが言ったように「戦争に勝つことが全てではない。平和を作ることが大切だ」。それが人々の望みだと思います。特にクーデターの苦しみの中にいるミャンマー国民みんなの希望です。
 この寒い冬に平和という太陽が早く昇って、クーデターによる戦乱に苦しむミャンマーの国民を照らして欲しいと思います。


◇審査員特別賞◇
私しか知らない日本のすごい所
氏名:アルベス デ フレイタス タミリス 
   ALVES DE FREITAS TAMIRIS
丸の内ビジネス専門学校 ビジネス科
出身国:ブラジル
 母国ブラジルから日本に来たばかりのある日、私は道に迷ってしまいました。その時私は上田市に住んでいて、まだ日本のスマホを持っていなかったので、目的の場所に行く方向とは違う道に曲がってしまったのです。
 その時は大変でした。まだ日本語を話すことができませんでしたし、もちろん地図も持っていません。友達もいなくて、とても困ってしまいました。
 道がわからず、どうしたらよいのか考えも浮かばなくて、私は空を見上げました。すると、そこにはたくさんのカラスが見えました。そのカラスたちは私に声をかけるように鳴くと、飛んでいきました。そして私は誘われるように、カラスの後をついて行ったのです。
 しばらく行くと、カラスたちはとてもきれいな神社に止まりました。私は「あれ、ここにこんなにいい場所があるの?」と驚きました。その後、私は神殿に少しお祈りをして、もう一度カラスについていきました。すると、今度は、カラスたちは私が探していた道に私を連れて行ってくれたのです。私は驚くとともに、とてもうれしくなりました。
 しばらくしてから、私はビジネスを専門的に学ぶために松本市に引っ越しました。コロナでどこにも行けない日々が続く中で、友達も多くなく、国にも帰ることもできなくて、私はさみしい気持ちになっていたときに、もう一度そのひっそりとたたずむ美しい神社を訪れ、カラスにパンをあげました。久しぶりにその場所を訪れて、昔のことを思い出し、とても幸せな気持ちになりました。
 私の故郷ブラジルには神社がありません。ですが、神社は私にとって、心が落ち着いて、安らぐ場所です。カラスは日本ではよくないイメージと聞きましたが、私にとっては、いなければならない存在です。この神社に来ると、そのカラスたちに会うことができるからです。
 今となっては、松本市での生活にも慣れて、検定試験にもたくさん合格し、いろいろな国の友達もたくさんできました。もちろん日本人の友達もたくさんできました。コロナで勉強も生活も大変でしたが、国、地域、学校、先生の支援があって、私はコロナ対策を徹底しながら、変わらない学校生活が送れていることに、心から感謝します。今、私は一生懸命勉強しています。将来、日本で経験したことや学んだことを活かして、日本のみなさんに恩返しがしたいです。
 その後も、機会があるごとに私はその神社へ行きます。今では、日本人と同じように、そこでお祈りをするようになりました。例えば、「検定試験に合格しますように」や「早く家族に会えますように」、最近は特に「コロナウイルスが早く収まって、早く日常生活が元に戻りますように」と願いを込めてお祈りしています。今でもカラスたちを見ると、「こんにちは」とか「こんばんは」とあいさつするのを忘れていません。
 私は母国ブラジルでもいろいろなことを体験しましたが、日本に来てカラスとの出会いは、これからも忘れられない出来事の1つであることには間違いありません。
 私の心の友達であるカラスさん、ありがとう。


◇審査員特別伊藤賞◇
留学によって切り開く私の人生
氏名:BATBAYAR NOMIN ERDENE
(バトバヤル ノミンエレデネ)
信州大学工学部物質化学科3年
出身国:モンゴル

 2019年、寒さの厳しいモンゴルの冬、私は手術台の上に横になり、手術を受け、下半身が完全に機能を喪失し、頭がぼーっとしていました。 そのとき、目を閉じたら2年前の自分が頭に浮かんで来ました。18歳になるまでの1番の夢であった「日本に留学する」という夢をもう叶えたことを思いました。私は家族をはじめ、友人、教師の信頼を得て、夢の日本にやってきました。1年生のとき、奨学金がなく、日本語が苦手な私は、大学で毎日一生懸命頑張っていました。
 そんなことを考えていたら急に、突然赤ちゃんの泣き声に目が覚めました。その声を聴き、心臓がドキドキし、涙が浮かびました。最大の喜びの涙でした。女性を一番幸せにする「子供」を産み、私は母親になりました。私は大学生ママになりました。
 大学2年生の春、妊娠していることが分かった時、両目より涙がはらはらと流れていたことを覚えています。恐怖、ショック、痛恨、疑い、および喜びの感情が溢れました。何をすべきかという考えが頭をよぎりました。ひとまず彼氏に報告しました。彼氏はしばらく黙っていて、私にそう言いました。「私は、何が起こってもあなたの意見を支持します。それでいつもあなたのそばにいることを誓います」と言いました。
 次に、両親に自分が妊娠していることを伝える大きな一歩を踏み出す必要がありました。私は1人で何をすべきかを決めるのではなく、家族と相談することが最善の行動であると思いました。ある日、公園の中を歩きながらモンゴルにいる母親に電話し、妊娠したことを報告しました。 「中絶してはいけない。もちろん子供を産みなさい」といったお母さんの優しい言葉は、すぐに私を安心させ、今まで抱いていた醜い感情を消し去りました。それで私は専業主婦になるつもりも、学業をやめるつもりも最初からなかったので諦めることなく、新しい物事にチャレンジできるチャンスだと思い、出産の準備を始めました。
 私は妊娠の困難な時期を乗り越えながら、辛うじて前期の授業を終わらせました。最後の一歩として大学の方に1年間の休学届を提出する必要がありました。日本の社会では、学生が妊娠したことを受け入れられる可能性は低いので、私は大学の先生方を恐れていました。特にモンゴルと日本の架け橋になり、モンゴルの発展に貢献したいと来日した私に、妊娠するなんて本当に許されないことでした。先生たちは妊娠報告を聞いてショックを受けましたが、安産祈願の優しい言葉と必ず大学に戻ってほしいと言ってくれました。それで、私の周りの皆が温かい心で妊娠のことを認めたので、今後ともより頑張っていかなければならないと強く思いました。もし成功を願うならば、自己犠牲を払わなくてはならないため、夫は日本で進学し、私はモンゴルで出産して1年間子育てをするように決断しました。赤ちゃんの成長とともに私は歩くこともできなくなり、車椅子を使わなければならない状況になりました。このように私は家族のおかげで、1年間困難な妊娠や子育てを生き延びました。
 今の私の最大目標は大学を卒業することなので、すばらしい家族のおかげで子供をモンゴルに残し、私は日本に戻りました。勉強が仲間達から1年遅れており、見知らぬ人と同じクラスになり、娘がいなくて寂しいなど様々な問題がありましたが、私は諦めることなく将来のために一生懸命頑張ってきました。
 3年生の後期から就活を始めました。しかし、日本の会社は子供がいる学生を雇うことに慣れておらず、子供は弱点になっていることを聞いて、ショックを受けるようになりました。日本では、「男は外で働き、女は家庭を守る」といった性別役割分担の意識が社会に強い影響を与えています。それで多くの女性が家事・育児等の家庭内労働を担っています。私は夫妻両方育児の責任を持ちながら、共に働いていくことを強く願っている人間です。しかし、なぜ、日本では男女共に就労と家事・育児等の家族的責任を両立しながら安定して働ける可能性はないのでしょうか。この問題は本当に私を悩ませています。
 私は将来、環境問題を解決できる化学エンジニアになることを目指しています。日本とモンゴルの架け橋になり、モンゴルに貢献できる者になりたいという夢を持っています。最近からこの夢にもう一つの願いが込められるようになりました。それは、子供を持つ女性も効率良く働くことができていることを示したいのです。性別に基づく差別をなくすことに少しでも貢献したいです。私は子供が弱点ではなく逆に強みであることを皆に理解してもらいたいです。日本人から「お子さんのいるお母さんは男性と同じように働き、女は幸せな社会の元である」と言われたいです。私は母親が男性より最大の心と強さを持っている人間だと思っています。赤ちゃんが生まれた瞬間から、私は世界を大きく見るようになりました。子供のためにより強く、より良く生きていきたいと思っています。いつか、自分のやりたいことをやりながら、家族3人で日本で幸せに暮らす最高の時期が絶対に来ると願っています。


◇山梨YMCA特別賞◇
人生の豊かさとは?自分はこう考える
氏名:チン テイリン
信州大学グローバル化推進センター
日本語学科
出身国:台湾
 
 「私が生きていることの理由は、何だろうか?」、「自分の人生、何が正解なのか?」。小さい頃から、このような疑問はいつも私の胸に浮かんでくる。正直に言うと、今の私も、まだそれらの答えを探している。しかしながら、それらの答えを探すという過程、私にとって、それは人生の豊かさだと考えられる。
 人生の豊かさとは、何なのか?人はそれぞれ、答えもそれぞれであるわけだ。私にとって、二つ目がある。まず、一番大切なのは、野心を持っていることである。今日の私は必ず昨日の私より、もっと強くなるはず、いわゆるますます強大な人になっている。その強大な意味も人にそれぞれだけど、私も長い時間がかかっていて、先日までやっとその意味を探した。それは、どんな困難があっても、簡単に諦めないで、困難を越える後、最後の結果にもかかわらず、必ず新しい収穫を得る。
 簡単に言うと、結果より過程の方が大切。高校二年生の時、不明の原因で視神経炎を起こして、長い間入院していた。再び大学二年生の時、また再発した。この間では、色々な脳や神経などの検査を受けても、まだ原因不明である。高校二年生の時、初めて病気が起こった時、私はちょうど友達と地域のダンス試合と大学入試模擬試験を準備していた。
  しかし、ある日、私がベッドから起きた後、目を覚ましたところ、周りのことが模糊になると感じた。最初のとき、全然気にしないで、大したことがないかもしれないと考えられた。しかし、数日後、病気はどんどん悪化しつつ、特に左目がほとんど失明になった。母は、急いで私を近くの病院に連れていった。検査により、視野が一部欠損していることが分かる場合があった。治療のために、急いで入院しなければならない。医者によると、恐らく多発性硬化症の可能性がある場合、今回だけでなく、今後とも再発するかもしれない。医者は両親に「今後とも心構えしてください、また、娘さんは必ずいつでも体の調子を注意しなければなりません、もし自分の体を苦労し過ぎれば、再発する可能性も高くなります」と言った。
 このすべてのことは、当時の私だけでなく、親友とも納得できなかった。実は、小さい頃から私の夢では、看護師になること。しかし、看護師の仕事はとても大変だから、私の体に負担をかける恐れがある。だから、先生の話を聞いたところ、まるで青天の霹靂のように、私を非常にがっかりさせた。夢が破れたうえに、私の人生も崩れたと感じられた。入院していた間、これからの人生はどうでもいい、全部のことを諦めたいというネガティブな考え方は私の胸にずっと浮かんでいた。あの時は私の人生で1番黒い部分といっても過言ではない。
 その時、この悲しさで空っぽになるような私を救ったのは、私の母。彼女が普段なら何が起こっても、いつでも落ち着いて立ち向かえるという強い女の存在と認められていた。最初に病気が起こった時から入院まで、彼女も何を言わず、平日のような顔をして、私に世話してくれた。しかし、ある日の夜中、私が途中で目覚めした瞬間、その平気の母親が布団に忍び泣いていたのを垣間見た。ビックリしたうちに、母も私が目を覚ましていたのを見つけた。時間が止まったように、私が彼女に慰めの言葉を言いたかったが、結局、何も言わなかった。
 「ママとパパにとって、一番大切なのは、あなたは幸せに生きているかということだ。これからどんな困難があっても、私たち絶対にずっとあなたのそばにいるから、結果がわからなくても戦おう」と母親が私に言った。不思議なことに、この話を聞いたとたん、私の元々空っぽの胸に瞬間的に勇気と希望をいっぱい注いだ。元々人生は不確実性がある。人生は山あり谷ありと考えれば、上にいたり、また下にいる。両者とも中身の美しさがあるはず。「確かにあなたは看護師になれない、では、ほかの夢を探しましょう」と母親は続いて言った。
 以前の私は「看護師になる」という目標を持っていて、一生懸命に努力していて、それは私の人生の唯一の正解だと考えられた。しかし、本来では人生に正解がない。価値観によると、どんな答えでも正解。仏教の中に「諸行無常」という言葉がある。いわゆる変わらないものが存在しない。今幸せと思えても、明日は不幸せに思えるかもしれない。これからの時代はいわゆる「正解」がなくなってきているので、正解がない不確実性のなかに身を置き続けられるという強さは、本質的にますます求められていくと思う。それを考えれば、面白い生き方である。そう考えると、たぶん大部分の人にとっては納得できない。「じゃ、私は今まで何のために働いていますか?」「今までの努力を無駄にしたか?」「私の人生の豊かさは?」とか以前の私なら必ずそう反論した。
 病気が起こった後、私は一つのことを理解した。私たちは神様ではなく、物事の見頃を変えることができないし、しかし、私は自分の心境を変えることができる。心を変えれば、あらためて1度世界を見ると、必ず別のものを発見して、美しいものでも、悲しいものでも、どっちでも自分の人生に生まれたものなので、その存在の意味を探すという過程は私にとって、それが人生の豊かさかなと考えられる。
 人の寿命は短いので、愚痴をこぼすというより、むしろ感謝する方がいいと考えられる。過去の経験に対して感謝をすることができれば、その記憶は浄化されます。今に感謝をしたいと思ったら、過去の自分も癒しあげる必要がありますが、そうすることで、心を変えることができます。その夜の後、朝、私はあらためて友達に連絡して、再びダンス試合の準備していた。その過程もとても大変で、例えば、あの時の私の視力障害だから、ダンスする時、目が見えないので、バランスと動作をちゃんとすることができなかった。正直に言うと、途中で、色んな困難があったら、私が何度もやめたいと思った。友達の励ましのお陰で、私が一つ一つ越えることができた。それは、私の二つ目の豊かさ、仲間。仲間は友達だけでなく家族も仲間の一種である。
 人類は元々社会的動物、一人で生きているのは無理。仲間がいることで、自分が困った時や辛い時に相談したり一緒に解決することで、自分がより良い姿になっていくと言うのは理解できる。もし、ただ自分だけでいると、自分の中で完全に腑に落ちる答えは見つからなかった。また、人にはそれぞれ個性や物事の考え方もそれぞれである。仲間と交流して、多くの人と関わりながら、人格を形成していくためにも仲間を大切にすることは大切な過程であると考えられる。彼らと出会ったら、視野を広げるうちに、心も新しいものと感じられる。こうすれば、私たちの人生の深度は深くなっていける。人生は長い間を生きているというより、その深さはもっと大切なことである。
 人は違う環境から成長するのだから、その価値観や個性などによると、人にとって人生の豊かさはそれぞれである。「正解」はないが、自分の心の声を聞こえるか、それが、1番大切である。もし本音と認められないなら、自分を騙すことになり、世の中の迷った子羊になりやすい。