私の祖国が抱える問題
MYO THAN HTAY ミャンマー連邦
信州大学工学部総合工学系研究科・システム開発工学博士課程2年

 大学を卒業した後、私は愛する母国ミャンマーを離れて憧れのアジアの先進国日本に様々な物事を学びに留学してきた。来日して日本と母国との類似点及び相違点それぞれを比較することができて感動の連続でした。特に感動したのは初めて成田空港から長野まで高速バスに乗って来た時だった。凹凸の無い永遠と続く長い道路、そして平地と高原を見事に結んだ大きくて長いトンネルを見た時、私は自分の目を疑うほどでした。それは初めて日本人達の偉大な仕事ぶりを肌で感じた瞬間でもあった。ミャンマーの山地帯に生まれた私は故国にいた時、夢にも見られなかった光景はこの地球上に本当に存在しているのではないかと驚きを隠せなかった。祖国では高原と平地を繋ぐ同じ位の距離を車で一泊旅しなければいけなかったのが日本ではなんと5時間足らずで行けるのだ。また新幹線を使えば僅か1時間半ほどで着くのだ。このような素晴しい物を日本人たちがどれだけの汗を流し、そして何年間かけて創り上げたのだろうかと考えてみた。間違えなくこれらは莫大な努力と長い年月によってやっと実現した結晶であろう。
 第二次世界大戦が終わった頃、日本は敗戦し、戦闘地になったため東京をはじめ、多くの地域が焼け野原だらけで悲惨な状態にあったことが知っていた。同様に、私の祖国も激戦地になったため日本と変わらない状況にあった。しかし、60年間あまりの今日、日本と私の祖国は様々な面から大きく違っている。日本はアジアの経済大国に生まれ変わったのに対して私の祖国はまた経済発展の軌道にてさえ上手く乗れてない状態にある。この違いの原因はなんだろうとずっと考えていた。国の基盤の違いなのか?母国の人口が日本の約半分である。よって労働力を単純に計算すると日本の半分ほどあるのは間違えない。また国の天然資源の面から見ればむしろ祖国の方が恵まれているのである。そう言った国力を持っているのにも関わらず祖国の国民総生産(GNP)は日本の半分と言うより十分の一にも値しないのが現状である。どうもこの違いの理由は目に見える物理的な物だけではないようだ。同じアジア大陸に存在するこの二つの国がどのような道を歩んできたのだろうかと戦後60年の間を振りかえて見た。一つだけはっきり分かっているのはここ60年間日本ではずっと平和であったことである。一方様々な民族を抱える私の祖国はこの民族間争いによって嵐の連続が続いていた。これこそが今日の日本と祖国を違った姿に導いた要因であるのではないかと思った。
 60年前、祖国は諸民族の団結によってイギリスの殖民支配から独立し、新しい連邦国家として生まれ変わろうとしていた。自由で平和な生活をやっと取り戻せたが、数年も経たないうちに民族間の紛争が勃発し、国の情勢が不安になり、手に入れたばかりの自由と平和が去っていたのであった。民族間の争いは自分たちの自由と平和を自分たちで放棄したような行為であったのだ。共有の問題を解決するため和平的な交渉より武力行為による手段を選んでしまい、結果として長年の苦難が続き、膠着した状態のまま私の祖国は60年間あまり自分たちの貴重な時計を止めてしまったのだ。一方日本では国から戦争を永久に放棄すると言った史上に例の無い斬新な理念が盛り込まれた憲法を定め、国の復興のため国民も一丸となって貴重な時間を有効に生かして誠実に働き、平和への道を専念した。また国民一人ひとりの権利を尊重し、文民優位の原則が確立した。その結果70年代頃、ついに日本は世界の人々が驚くほどの高成長期を成しとけた。戦前は残酷な軍主導国家であった日本が優れた文民主導国家に生まれ変わったのだ。かつてないアジア人の見本になったのであった。同じアジア地域内で日本は私の祖国が目指すべき国家モデルの一つであると思った。
 祖国では100種以上の民族が共生しているが、各民族が異なる文化や言語を有する。この点は日本と基本的に違った点でもあった。しかし、より心を広げて考えてみれば何民族であろうと皆は同じアジア人であるには違いが無い。異なる文化を有する諸民族を強制的に統一化するのは不可能なのだが、同じアジア人として尊重し会うのはできるはず。日本のように国民一人ひとりの権利を尊重し、そして全民族を誠実に代表する者達が共に結成した文民優位の原則が確立したとしたら、何民族であれ平等そして平和に暮らせるはず。これは私が望む祖国の未来の姿である。